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比嘉正子プロジェクト Lab RTA

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連載

プロローグ

六歳前後の子どもたちが五、六人、木陰の床几に並んで座っている。揃って真剣な顔で、丸とも俵とも三角ともつかないぶかっこうな握り飯を、黙々と頬張っている。その様子を...

1 琉球士族の誇りと
ヒューマニズム

ある日、正子が帰宅して自宅の門をくぐろうとすると、一人の男の人が小さな包みを抱えて出ていった。門の前ですれ違った男の人は、外国から届いた手紙を正子の父渡嘉敷宗重...

2 父の苦難

 1921(大正11)年、女学校本科三年生になった正子には一つの夢があった。昨年、女子の入学が認められた東京の日本大学で社会学を学ぶことだった。村の人...

3 夢見ることをあきらめない

父宗重の考えもあり、正子は将来、女学校に進学することになった。学問を続けられることは嬉しかったが、手放しで喜ぶことはできなかった。家に自分を女学校にやるだけの余...

4 新しい世界へ

1922(大正11)年、本科の三年間を終えて首里市立女子工芸学校を卒業。正子は期待に胸を膨らませて、宮古の西辺尋常高等小学校に赴任した。十七歳になったばかりの春...

5 神学校での薫陶

バプテスト女子神学校への入学を決意した正子は、実力行使で沖縄を出て大阪に着いた。姉の家でゆっくりとくつろいだ翌日、神戸に向かった。神戸駅で電車を降りると、手荷物...

6 自律する女性像

背が高くふくよかなミス・L・ミードは柔和な人柄の人格者だった。生徒に話をするときは肩に手をかけて自分の体にひきよせ、庭を散歩しながら静かに話すのが常だった。校長...

7 保母として社会の坩堝へ

神学校卒業を三カ月後に控えたある日、正子は神学校を抜け出し、そのまま戻らなかった。正子が行方不明になったと神学校が大騒ぎしているとき、当の本人は大阪市北区のスラ...

8 スラムの苛烈さを前に

大阪北市民館には診療所があった。その診療所では低所得者に無料で薬を出していた。ある日、患者の一人が「ただの薬なんか効くわけないやろ、こんなもん」と声を荒げて、手...

9 穏やかな家庭の日々へ

天六、大阪のスラム長柄にある大阪北市民館で正子は苦悩の日々を送っていた。秋が深まりゆくある日、謄写版刷(とうしゃばんず)りの一枚の葉書が届いた。そこに書かれてい...

10 保育園を始めなさい

1931(昭和6)年の早春。三人の子どもに恵まれて、慌ただしくも平穏な日々を過ごす比嘉正子のもとに、志賀志那人から手紙が届いた。「話があるゆえ、至急、来られたし...

11 青空保育園誕生

休閑中の田んぼや季節の作物が植わった畑の後ろには、ぼうぼうと青草が生えた田園跡が広がっている。足元の草むらでは蛙がぴょんぴょん跳ねている。京都九条から大阪梅田を...

12 「母の会」の始まり

情熱に駆られて突っ走る正子だったが、ほんとうに何もない所に子どもたちが集まるのだろうか、という心配はあった。「子どもをあずかってあげましょうと、言って集めればい...

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監修
社会福祉法人 都島友の会
著者
井上昌子(フランセ)
挿絵
中塚真
デザイン
(有)オフィス ティ
サイト制作
(株)つくし

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