第2弾 比嘉正子物語 蒼天に咲くひまわりの愛 全30回

15 独自の保育システムをつくる

1933(昭和8)年5月20日、大阪に地下鉄が開通。御堂筋線として梅田から心斎橋の間を繋いだ。開通からしばらく、心斎橋駅には乗車を待つ長い列ができ、高いドーム型天井をシャンデリアが飾り、エスカレーターを備えたモダンな華やかさに、人々は息をのんだ。大阪は都市化の最先端を走り、正子の見通しどおり、大衆への幼稚園の必要性は高まっていった。保育と幼児教育の両方を併せて行う福祉的幼稚園構想は、いよいよ生活者の必要に適っていった。

「北都学園」から「私立都島幼稚園」に名を改め、幼稚園令の認可申請を出して一年以上経っていたが、認可は下りないままだった。認可が下りようと下りまいと、教育、保育の質に変わりはなかった。その時々のいちばん良いものを子どもたちに与える、経験させる方針で保育を続けた。日本全国の都市部が産業化を進める一方で欠食児童が増大。文部省が学校給食の訓令を出した。法令による認可のない幼稚園であったが、都島幼稚園では厨房を設え、給食を実施していた。

1934(昭和9)年春、第二回修了児たちを送り出した。幼稚園の認可は下りないままだった。9月になった。正子は業を煮やして、顧問の志賀志那人に相談した。志賀から辻坂信治郎(つじさかしんじろう)大阪府議会長に、認可促進の電話を一本入れてもらった。その翌日の9月3日、認可の連絡がきた。9月8日付、縣 忍(あがたしのぶ)大阪府知事による認可となっていた。志賀がどのように話をしてくれたのか 仔細は分からないが、大阪府議会長の権威に驚いた。二年半以上待って得た認可の喜びは大きかった。何年経ってもそのときのことを思い出すたび、そのときとそっくりそのままに、胸が踊りだすのだった。

法的には幼稚園となったが、託児所的機能と幼児教育を担う、福祉的幼稚園をつくるという考えは変わらなかった。正子は保育所として独自のシステムを構築した。「家庭がどうこうあろうと、子どもたちは平等だ」という信条があった。ここは、子どもたちが等しく機会を与えられる場。それぞれの子が、可能性を広げていく環境を整えていく。そういう館が、比嘉正子が思い描く「私立都島幼稚園」だった。

ただ、理想と現実の間で悩むこともあった。それは園の財政面のことだった。家庭の事情に関わらず、子どもたちが平等に教育と保育を受けられる福祉的幼稚園。そのシステム構築にあたって、正子は保育料のスライド制の導入を考えた。豊かな人からは多く、そうでない人からは少なく。考えはよいのだが、さてその基準をどうするか。思案に暮れている正子に、追い打ちのように、保母たちからこんな言葉が投げかけられた。

「あなたのお家はお金持ちだから多額を、あなたのお家は貧しいから少額を出してくださいなどということは、プライバシーを侵すことになりますから、私たちはよう言いません」

返す言葉がなかった。それではと、「一口2円と決めて、何口でもいいということではどうだろう」と言うと、「まるで寄付金募集のようではありませんか」と批判があった。どの案も、差し障りがあって進みようがなかった。お金は有る人から無い人へ流すという、社会事業的な財政運営の考えは、諦めざるをえなかった。保育料は2円のままで、母の会の会費を20銭から30 銭にすることで落ち着いた。

正子が着想した、家庭の財力に応じた保育料は、戦後、1947(昭和22)年に制定された「児童福祉法」で実現した。保育所の保育料は、所得と市民税を基準にして個々に決定。生活保護家庭は無料になる。各園児の保育料は保育園にも区役所から通知がくる。戦後正子は、この所得と市民税を基準とした決め方に感心した。スライド制はやはり行政でなければ実行の難しいシステムかと、一民間の立場の限界も実感した。

「幼児教育は大衆にも必要である」。1931(昭和6)年に、青空保育園として北都学園を創設したときからの、正子の信念だ。富裕層の特権であった幼児教育と、庶民のための託児所的役割を包含する、福祉的幼稚園。それが、正子が一貫して続けてきた保育教育システムだ。

「家庭がどうこうあろうと子どもたちは平等だ」という信条のもと、私立都島幼稚園は入園希望児を公平に受け入れた。一切の家庭の事情に関わらず、子どもたちを等しく受け入れる。強いも弱いもなかった。

このころ、都島地区には私立都島幼稚園の他に、公立の託児所が一カ所あるだけだった。毎年、増加する希望児で、私立都島幼稚園の園児の数も膨れあがっていった。1935(昭和10)年ごろからは、入園児も修了児も百人以上になった。各クラスの児童数は四十人となり、園長の正子も担当クラスを持ち、現場に立ち続けた。

園児の増加に応じて、園舎や運動場、設備の拡充が必要だった。1936(昭和11)年、保育室を二部屋に増築、運動場も拡張した。翌年、運動場にブランコ、滑り台、ジャングルジムを設置した。子どもたちに、その時々のいちばん良いものを用意する。子どものころの経験は将来の基盤となる。その大切な時期を過ごす環境を望ましいものにするために、正子は資金繰りに奔走することになった。資金は国や地方行政の補助には一切頼らず、保育料と父兄の寄付で賄った。不足すれば正子自身の給料を止めた。

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