第16話 強まる戦時色のなかで

私立都島幼稚園の入園児が百人を超えた1935(昭和10)年ごろ、戦時色がいよいよ濃くなってきた。1931(昭和6)年の満州事変、1933(昭和8)年の国際連盟脱退と、強まる一途だった戦時色は、保育の場にも影響を及ぼしてきた。幼児教育において、お国に尽くす国民精神と、強い身体の養成が重んじられるようになった。運動場を拡張し、ブランコや滑り台、ジャングルジムを設置した1937(昭和12)年、保育内容に皇居遥拝(皇居に向かって拝礼すること)、日の丸掲揚が取り入れられた。また戦時色が強まったこのころから戦争終結まで、軍歌が大流行し、子どもたちも知らず知らずに覚えて歌うようになっていた。
時節の中で園の歌唱にも軍歌が取り入れられた。保母がピアノで弾くと、子どもたちは目を輝かせて生き生きと歌った。〈満州行進曲〉〈兵隊さんよありがとう〉〈太平洋行進曲〉〈隣組の歌〉〈日の丸行進曲〉〈戦友〉〈父よあなたは強かった〉〈予科練の歌〉〈同期の桜〉などが、主に取り入れられた曲だった。これらをピアノで弾くと、騒々しかった子どもたちが声を合わせて歌いだした。挙国一致、勤労奉仕、戦力増強に心を合わせた大人たちは、「悪いことをすると立派な兵隊さんになれませんよ」と子どもを躾けた。そういう大人たちの姿が、その子らの向こうにあった。
子どもに至るまで浸透した国民精神。お国の命運をかけた戦に協力するのは国民の務めとする国民精神総動員運動を、食い物にしようとする輩もいた。ある日の午後3時過ぎ、保育が終わり、保母たちと後片付けをしているところに、見知らぬ男が現れた。紋付羽織袴に身を包んだ初老の男性だった。手にしたステッキを大きく振りながら、下駄履きのままホールに上がってくると、「園長はいないか、会わせろ」と野太い声を響かせた。袴を蹴飛ばすように歩く足元の白足袋がやけに目についた。
乱暴な人だなあと思いながらも、「私が園長でございます」と、正子は一歩前に出た。保母たちの中から出てきた若い正子を見ると、その男はことさら顎を上げて喋りだした。
「教育勅語の精神で保育しているか。教育勅語の掛け軸を持ってきたから、有り難く買え」
「当園は、山野名誉園長より立派なものを頂戴してあるので、いりません」
一瞬の躊躇もなく、いりません、とはっきり断わった。すると男はいよいよ肩を怒らした。
「きさまっ、教育勅語の精神で教育しないと言うのだなっ」
大声を張り上げて怒鳴り出した男に保母たちは震えあがって逃げ出してしまい、正子は一人きりになってしまった。しかし、ここで怯む正子ではなかった。
「当園が皇道精神で教育しているいないかは、明日、朝から見にいらっしゃい」
負けじと肩を張り、怒鳴り返しながら一歩前に出た。
愛くるしい顔から一転、鬼の形相で怒鳴り返した正子に度肝を抜かれたのか、男は仁王立ちのまま黙っていた。生来の負けず嫌いと道理を違えた相手の言動への反発で、後先考えずに怒鳴り返したものの、ステッキで殴られはしないかと心臓が口から飛びだしそうに弾んでいた。しかし、怖がっている素振りは見せなかった。一歩も引かず、真っすぐに睨み返して微動だにしない正子に、これ以上の脅しは効かぬと諦めたのか、男は下駄の歯が割れはしないかと思うほどの音を立てて帰っていった。
戦時体制の影響はどんどん強まり、1939(昭和14)年になると「米穀配給統制令」が公布された。給食室の火が消えて、子どもたちは日の丸弁当持参となった。地域の消防や防空のための組織「警防団」や、互助、自警、配給などにあたる「隣組」をつくることが制度のもと義務づけられた。幼稚園でも防空訓練や集団避難訓練を行なった。登園の服装も、モンペに防空頭巾となった。給食がなくなり、配給米での弁当で空腹を訴える子どもに、「欲しがりません。勝つまでは」と、我慢を教えることには心が痛んだ。保育内容も非常時のものとなった。ただ、園庭で遊ぶ子どもたちの笑顔には変わりはなかった。
1941(昭和16)年3月、戦況の激化の影響を受けながらも、私立都島幼稚園は創設十周年を迎えた。在園児は百五十名、十年間の修了園児は八百人余となり、正子と共にその子らを見てきた保母も総数四十八人を数えた。
私立都島幼稚園が創設十周年を迎えた1941(昭和16)年の12月8日。日本は米英に「宣戦布告」するや、真珠湾攻撃に成功。翌年の晩春までは、日本軍の向かうところ敵無しの勢いで、戦況の芳しさを伝えるニュースが、日々、国中の人々を湧き立たせていた。しかし翌年5月になって間もなく、米軍が攻勢に転じた。日本全国で防空訓練が実施された。都島幼稚園でも、防空頭巾を手に広場や公園まで駆け足で避難する、集団避難訓練が保育内容の日課に加わった。公園や空き地を求めて東へ西へ南へ北へ。保母の笛の音に合わせて、休みなしに駆け足をする園児たちの訓練は、正子たち保母の神経を甚だ疲弊させた。さらに防空訓練として、防空壕の役割や、どんなときに逃げ込み、壕の中ではどう過ごすか姿勢についてまで教えることも日課となった。