第2弾 比嘉正子物語 蒼天に咲くひまわりの愛 全30回

13 どうこうあろうと、
子どもたちは平等だ

青空の下、公園を園舎に北都学園を始めた正子は、「保育者と母親の友愛が不可欠」との考えから、開園と同時に「母の会」を組織した。「母の会」会長の吉川和子は、女子高等師範学校の出身で、才気煥発な切れ者だった。正子は、事の顛末を話したうえで、計画を打ち明けた。

「ここは山野名誉園長に、一肌脱いでいただきたいと考えています」

「まあ、実に良案」

吉川和子は、愉快そうな笑みを浮かべた。

機を逃さずと、山野平一から注意を受けて間もなく、正子は山野邸を訪れた。吉川に加えて、母の会の役員二名が加わっていた。決意に目が爛々とする正子に、正子が頼もしいと信じる母の会の役員たち。いったい何ごとかと訝る山野平一に、正子は陳情した。

「先生、都島には一つの幼稚園もありません。北都学園では私たち四人の保母が誠心誠意、一所懸命保育しておりますので、ケガをさせる心配はないと信じております。しかし、人間には万一という事故が起きることも考えられ、先生と同じ心配をしております。どうか、土地と園舎を提供してください。お家賃は母の会で、責任をもってお支払いします。ご迷惑をかけることなど、夢々ございません」

一気にそう言い終わると、大きく息を吸い込んだ。

「なにとぞ、ご支援ください。この都島では先生よりほかに、お願いする方はありません」

正子と吉川和子たちは、揃って深々と頭を下げた。

そして8月、三百坪の土地に二十五坪の園舎が建った。園舎には保育室と事務室、応接室、さらに厨房を設えた。広々とした園庭に隣り合った一角に十坪二階建ての比嘉家の住居も建てた。地域の中に住み隣人として共に歩む。ミス・L・ミード、志賀志那人。二人の師から受け継いだセツルメント精神がそこにあった。母の会の会員たちと友愛で結ばれた、保育の共同体へのさらなる一歩だった。

公園を園舎にした青空保育としての始まりから六カ月、「北都学園」は二百数十坪の園庭と、子どもたちを守る館(やかた)を持った。自宅一階の集合場所に掲げた『北都学園』の看板を見上げ、「いまにも、でっかい大きな学園ができそうじゃないか」と自分に言った言葉が息吹いていた。館を構えて園児は八十名になり、保母も一人増えた。保育料をそれまでの1円から2円に上げた。母の会の会費は20銭のまま据え置き、正子たち保母の給料も8円のまま据え置きとした。毎月10円の家賃と、10円の所管金を支払って、安定した環境での保育ができるようになった。

厨房の設置は、正子のたっての願いだった。母の会が当番制で献立を作り、賄いを担当した。正子は大阪市北市民館保育組合で、弁当を持ってこられない子どもたち、三度の食事を決まって食べられない子どもたちの生活に心を痛めてきた。だからこそ給食を出せることは嬉しかった。ここに来れば誰もが同じように食事を摂る。それは正子の、「家庭がどうこうあろうと、子どもたちは平等だ」という願いを一つ叶えるものだった。

「家庭がどうこうあろうと、子どもたちは平等だ」

これは比嘉正子の信条であり、この信条を実現するために、彼女は生涯、闘い抜いていく。裕福な家庭に生まれ育とうが、スラムの家に生まれ育とうが、子どもたちは、皆、平等である。家庭環境を変えることはできなくとも、機会の平等が与えられる場所をつくる。その場所を正子は子どもの園と呼び、子どもたちの「館」と呼んだ。裕福な家の子であろうが、スラムの家の子であろうが、この「館」では誰もが等しくある。隔てなく受け入れ、隔てなく接し、隔てなく愛する。

この当時、幼児教育を行う幼稚園は富裕層の子どもたちが入る、いわば富裕層の特権。託児所は貧困家庭の子どもを無料で預かる所と、一般的に思われていた。子どもの保育と教育を含み合わせて考えることもない世相に、正子は違和感を覚えていた。子どもたちの平等、機会の平等を考えれば、保育も幼児教育もけして分けるものではない。子どもたちの保育とは、その将来への可能性を育てることだ。その日その時の預かりだけでは、決してない。健やかな身体をつくり、知能を育て、心を養う。体・知・徳を育み人生の基盤をつくる。それが比嘉正子にとっての保育だ。

幼稚園を裕福な家庭の子どもたち以外にも開こうとしていた、沖縄の善隣幼稚園。バプテスト女子神学校で学んだ幼児教育。アメリカ人宣教師ミス・L・ミードから教えられた自由と博愛。社会の坩堝へと飛び込ませた、「世の中から貧困と不平等を無くすために力を尽くす」という考え。そして、大阪北市民館保育組合で身をもって知った子どもたちの不平等。少女時代からの経験が融合し、教育者比嘉正子の中で、「北都学園」の進むべき道がどんどん明らかになっていった。それは、幼児教育はもはや富裕層の特権ではない、大衆にも必要である。幼稚園の教育的要素と、託児所の保育的要素の両方を併せもつ保育所をつくる。保育共同体をつくる。保育を軸とした地域社会をつくっていく。女学校卒業を前にぼんやりと思い描いた、社会をつくる仕事がしたいという夢が、はっきりとした輪郭をもって正子の前に現れた。

1931(昭和6)年。年が明けると、「北都学園」から「私立都島幼稚園」と名を改めた。そして幼稚園令による認可申請を出した。当時は保育所の法令がなく、法的に認められる施設は幼稚園だった。名称変更に伴い、認可を待たず正子は園長に就任した。そして保育を軸とした地域づくりの担い手、保育共同体の核となる「母の会」の強化に着手。『幼稚園よりお母様方へ』と題した保護者へのお便りを送った。

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