第2弾 比嘉正子物語 蒼天に咲くひまわりの愛 全30回

9 穏やかな家庭の日々へ

天六、大阪のスラム長柄にある大阪北市民館で正子は苦悩の日々を送っていた。秋が深まりゆくある日、謄写版刷(とうしゃばんず)りの一枚の葉書が届いた。そこに書かれている文面に正子は啞然とした。

「このたび、比嘉賀盛(ひががせい)君と渡嘉敷周子(とかしきしゅうこ)さんが結婚することになりました。ついては某月某日午後五時から、料亭何某において結婚式と披露宴をいたします。会費三円ご持参の上、ご参集下さい」

友人代表 斉藤弔花(さいとうちょうか) 井ノ口政男(いのぐちまさお)

もう一度読み返した。葉書にある渡嘉敷周子の名、やはりそれは自分と比嘉賀盛との結婚式と披露宴の案内だった。突然届いた自分の結婚式と披露宴への招待状を手に、正子は賀盛の顔を思い浮かべた。比嘉賀盛とは神学校時代に教会で知り合った。正子と同じく沖縄出身の青年で、伝道師の従兄弟がいた。帝国銀行に勤める社会人で、彼も寮生活を送っていた。教会で話をするうちに、神学校まで正子を訪ねてくるようになった。社会科学研究会への参加も一緒だった。そうしていつの間にか、県人会など何かの集まりがあれば、いつも二人一緒に行くようになった。

快活で天真爛漫、表情豊かに話し、よく笑う正子は、神学校時代から青年たちに人気があった。二十歳を過ぎ年頃を迎えてからは、豪華な花束を贈られたり、高級なレストランでの食事に誘われることもあった。そんな中、比嘉賀盛はマシュマロをプレゼントしてくれた。正子にはそれがとてもロマンチックに思えて、帝国銀行に勤める誠実で穏やかな彼の意外な一面にすこし惹かれた。

同郷で、宗教的理念や社会に向けての関心を共にして、お互いにほのかにロマンチックな心情もある。とはいえ実際は恋人らしい付き合いなどない、同郷の友人どうしの域を越えないでいた。

傍目には恋人どうしに映ったのだろうかと、葉書を見ながら正子は考えた。「遅れないでこいよ」とある添え書きに、二人のことを思ってくれる皆の気もちが感じられた。お膳立てしてやらないと、あの二人はいつまでたっても結婚できずにいるだろうと、計画を練っている皆の姿が思い浮かんだ。自分たち二人への皆の友愛は感じるが、どうにも実感が湧かない。葉書に書かれている結婚話が、まるで他人事のようであった。

友人代表と名を記した斉藤弔花は、関西日報の編集長で、正子が敬愛してやまない人物だった。神学校卒業を前に、社会の坩堝に飛び込み、バイブルで学んだ精神を実践していきたいと切望したとき、大阪北市民館という職場を与えてくれた人でもあった。井ノ口政男は斉藤と同じく関西日報の経済部記者で、正子と同郷の人物だった。二人の名前の横に、「遅れないでこいよ」と添え書きしてある葉書を眺めながら、義理ある先輩を裏切っては大変だと思った。

秋も深まった11月の土曜日、式当日を迎えた。式は午後5時からなので、正子は普段どおり勤務していた。ただ定例の職員会議に出る時間はなかった。館長の志賀志那人にそのことを告げにいった。

「今日は職員会議に出られません」

「どうして」

「私の結婚式を挙げてくれるそうです」

志賀は鳩が豆鉄砲を食らったような顔で、「じゃあ、名字が変わったら早く届けなさいよ」とだけ言った。「はい、わかりました」とお辞儀をするや正子は、きょとんとしたままの志賀を置いてさっさと帰った。

その後の職員会議の席上で祝電を打とうとなったが、式会場の料亭がどこだかわからない。志賀館長はそれを聞くのも忘れるほど動転していたのだと、皆で大笑いしたと翌日聞かされた。

さて、そんな志賀を置き去りに飛んで帰った正子は、風呂にも入らず、化粧もせず、紺色の仕事服から銘仙の袷(めいせんのあわせ)に名古屋帯という和服に着替えるだけで、会場へ向かった。

受付けで花嫁自ら会費3円を払って会場控え室に入っていった。火鉢のそばに親しい女友だち二人の姿を見つけてほっとした。会場に料理を運ぶ仲居さんたちが、「花嫁さんはいつ来られるんでしょうね」と言いながら正子たちの脇を通っていく。正子は「さあねえ」という風に、素知らぬ顔でやり過ごした。

式が始まっても、正子は部屋のいちばん隅っこに隠れて座ったままだった。髪も結わず、化粧っ気もなく、お世辞にも晴れ着とは言いがたい銘仙の着物を着て、隅っこに隠れるように座っている花嫁。そんな花嫁を正面の金屏風の前に引っぱりだすのは心無いという配慮からか、仲人も正子の好きに任せておいた。賀盛も何も言わず、一人で金屏風の前に座っていた。

突然の葉書で自分の結婚式が行われることを知ってから式当日まで、正子は我関せずできた。ともかく敬愛する先輩たちが自分の結婚式を挙げてくれるというので、ありがたくその日を迎えたのだ。花婿の賀盛が、幹事の斉藤たちと連絡を取っていたかどうかも知らない。賀盛と正子の同郷の財界人や弁護士、大きな商店の主人たちの姿もあった。感謝の気もちに、花嫁の実感がじわじわと湧いてきた。正子は隅っこで結婚の乾杯をあげた。二人の新生活は、二階を間借りした部屋で始まった。結婚式の翌日もいつもどおり、二人それぞれ出勤した。

この結婚は沖縄の父宗重の逆鱗に触れた。家業の造り酒屋の跡継ぎ息子は夭逝し、正子の姉たち三人は嫁いでいた。幼いころから父親っ子だった末娘の正子に、跡を継がせると心に決めていたのだ。重税に苦しみ廃業に踏み切った家業だったが、士族の責務と誇りにしてきた泡盛造りの再興を諦めていたわけではなかった。利発で聡明で行動力がある正子に、その希望を託していた。

正子の強い意思に、最後には学問への理解を見せてくれた父も、そのまま大阪で就職し、果ては結婚までしたと聞いて怒り心頭だった。「お前は騙されたのだ。早く帰ってこい」と矢の催促である。それを正子が知らん顔で放っておくものだから、とうとう宗重は沖縄の賀盛の実家に怒鳴り込んだ。すると賀盛の親も「うちでも知らなかった。寝耳に水だ」と、どれほど驚いたかと言うばかりだった。

父の命を受けて大阪に住む姉が新居を見にきた。二階を間借りしての暮らしぶりに、姉はポロポロと涙をこぼして泣き出した。日曜ごとに食べるものを運んできてくれたりと、沖縄に帰ってくるように言って聞かせるようにという父の言いつけも忘れて、すっかり正子の新生活の支援者になってしまった。

結婚生活も二年目を迎えるころ、しびれを切らした宗重が、とうとう沖縄から出てきた。自分で引きずってでも連れて帰ると新居に乗り込んできた。迎えた正子は、生まれたばかりの長女をねんねこで負ぶっていた。最期の手段と勢い込んでやってきた宗重だったが、孫の顔を見て気もちが削がれた。二人の結婚を認めるというところまで、気もちは変わらないままだったが、正子を置いて一人沖縄に帰っていった。沖縄に戻ってこいという矢の催促こそこなくなったが、二人の結婚に正式の許しが出たのは、それから二年ほど経って二人目の子どもが生まれたときだった。

後々までも、私たちの結婚はハプニング結婚と話す正子だったが、賀盛はこの後、一つ所にじっとしていることなく情熱のまま走り続ける正子の、最大の理解者であり協力者となった。渡嘉敷周子から比嘉周子となり、比嘉正子として生きていく生涯の幕が、賀盛との結婚によって、いよいよ上がったと言っても過言ではない。

思ってもみなかった急転直下の結婚ではあったが、新たな生活の中、家庭に入って平穏に過ごす日々への思いが正子のなかに生まれた。結婚の翌年、1928(昭和3)年、妊娠を機に大阪北市民館保育組合を退職。正子は、理想と現実の間で葛藤するする日々に別れを告げていた。

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