第41話 町づくり計画の一翼を担う|次代へ
1982(昭和57)年、社会福祉法人都島友の会に、都島区友渕地区の再開発プロジェクト参画の声がかかった。正子にとって願ってもない機会だった。保育を軸に地域社会をつくる。それが大阪大空襲により閉園していた都島幼稚園を都島児童館として再開すると決めたとき、正子が志したことだった。
園児の保護者たちの生活の実情に応じて必要なケアを迅速に展開してきた。十年先の町の姿を見据え、変化する生活様式を見通し、先へ先へと地域の保育環境を整えてきた。保育は施設での預かりではない。広く保育の環境を整えていくことだと、保護者たち、地域の人たちと共に環境づくりを推し進めてきた。
地域とともに歩んできた五十年間の実績が、町の再開発プロジェクト、町づくり計画に生かされる。福祉とはすなわち救貧救済、ではない。生活者の日々を明るくする施策と実践、広く人々の生活の環境を整えていくこと。その視点の据え所として弱い者の立場に立つ。それが正子の社会事業家としての在り方だった。
友渕地区の再開発では、医療と福祉の充実した高層住宅街が、新しい町づくりの完成図だった。社会福祉法人都島友の会には、その福祉分野を担当し、児童福祉施設と高齢福祉施設の設計、建設から運営までを担ってもらいたいということだった。
1949(昭和24)年に都島の人たちの要望にこたえて再建した都島児童館は、地域の必要に応じて拡充を続け、1972 (昭和47)年には、町の児童福祉の拠点となる子どもの殿堂として生まれ変わった。名称も「都島児童センター」と改め、児童福祉としての一つの完成段階を迎えていた。常に十年先を見据えて事業を展開してきた正子は、1931(昭和6)年の青空保育園開設から数えて五十年が過ぎたこのころ、高齢福祉についての構想を始めていた。
社会が高齢化の道を進み、自身も七十代後半になっていた正子は、これからは高齢者が自立した生活を続けられる環境づくりが必要だと考えていた。揺りかごから墓場まで、という福祉の理想の実現を、この都島で成したいと思い描いていたのだった。
友渕再開発の話を受けることは即断だった。ただ、誰に任せるかが問題だった。無尽蔵のエネルギーで突っ走り続けてきた正子の体力も、さすがに坂を下りはじめていた。現場の最前線に立って指揮を執るには、体が思い通りにならなかった。正子の志を受け継ぎ、法人の理念を形にしていく仕事。その役目を誰に任せるか。
一つ物事を成そうとすれば、何かしら矛盾や軋轢が生じるものだ。360度、百点満点の計画と実行は不可能といってもいいだろう。社会事業、婦人運動、消費者運動と広く活躍を続けてきたなかで、正子は称賛と同時に批判どころか非難もさんざん受けてきた。それでも進むしか道は開けなかった。
学び考え決断し実行する。正すべきところを正しながら、信念を持ち、恐れず責任を負い、粘り強くやりとげる。常に弱い者の立場に立ち、弱さに甘えず、社会にとって何がいいのか、生活をどう守っていくのか、現実を踏まえ将来を志向して正しいと信じられることを行う。正子のこの姿勢を理解し、次代へと繋いでいく者。そしてもう一つ。きっとプロジェクトを進めるなかで起こるだろう正子との葛藤にも堪えられる者。渡久地歌子だ。正子はそう決めた。
「うちに来なさい。うちに来ればおもしろいよ」
1963 (昭和38)年、知人宅で、岡山から単身大阪に出てきた福田(旧姓)歌子に会ったその場で、正子はそう言った。正子の勢いにつられてか歌子は「はい」と言った。言ったあとで、あれ…どうして、というような顔をしているのが正子にはおもしろかった。
二人の我が子、牧子と健が立て続けに亡くなった年に生まれたということ、正子が消費者運動の先駆者としての人生を歩むきっかけとなった盟友、岩崎歌子(通称ウタ)と同じ名前。正子は何かの引き合わせのような不思議な縁を感じていた。歌子が大阪に慣れるまで、夫賀盛と二人暮らしの自宅に住まわせた。三女の貞子が結婚で出た後の家にやってきた歌子を、夫賀盛も歓迎した。
数カ月が経ち、大阪に慣れたところで正子は、歌子に都島病院勤務をはじめさせた。病院の二階に歌子の部屋をつくり、地域の一員として福祉に従事するセツルメントを経験させ、経営にかかる事務全般を夫賀盛のもとで覚えさせた。そして1969(昭和44)年、都島病院の近代化建替えも担当させていた。その後、都島乳児保育センターの事務局に異動させ、大学で社会福祉を学ばせながら保育士の仕事も手伝わせてきた。
設計、建設、運営に必要な経験は一通り積ませてある。正子からの理不尽な要求に、ときに口論もしながら、結局は逃げることなく応えてきた。そして、なにより子どもたちの殿堂を守ることへの歌子の使命感について、ある一件から正子は一つの確信をもっていた。
◇
1974(昭和49)年9月、都島第二乳児保育センターで労働争議が勃発した。
代用保母(研修生)として採用したA子という職員が欠勤・遅刻・早退の常習者で、勤務中も他の保母がしわ寄せを被る働きぶりだった。 上司の注意や指導にも聞く耳をもたず、権利の主張だけが激しかった。そして何より問題だったのは、子どもたちへの思いやりや愛情がまったく見受けられないことだった。全七施設の園長はたびたび話し合った末、とうとう、解雇やむなしの結論に至った。A子は解雇に不服を申し立て、総評全国一般労働組合が動いた。労働争議の勃発だった。
これは正子にとって1957(昭和32)年に都島病院で起こった労働争議、あの悪夢の再現だった。たちまち都島友の会全施設周辺へのビラ貼りとビラまき攻勢、団交の要求がはじまった。
正子は団交のためのチームをつくり、「相手の言い分を聞くことは大切だけど、言いなりになってはいけない。自分の意見を持って、納得いくまで話し合うんだよ」と、その代表役を渡久地歌子に言い渡した。彼女なら、それぞれの意見を分かり、その葛藤の中で問題への答を見つけていく。団交チームのまとめ役に適していると思ったからだ。
歌子はA子同様に給料で働く立場にあり、子どもを都島友の会の施設に預ける母親であり、団交にあたって、今、都島友の会を守る立場に立った。その日も団交に応じるためにチーム皆が本部会議室に集まっていた。ロビーの方から子どもたちの泣き声や悲鳴が聞こえてきたと思ったら、十数人の男たちが土足のままどやどやと会議室に乗り込んできた。子どもたちの怯えた泣き声に正子は憤ったが、先生は黙って座っていてくださいと歌子に釘を刺されていたので、何も言わずに堪えた。
男たちは部屋に入るなり口々に大声でがなり立てた。こちらの発言を封じるように自分たちの主張を怒鳴るように繰り返す。やれやれと思っていたところに、歌子が相手よりも大きな声をあげた。「大きな声でそう何度も怒鳴りなさんな。一回聞いたら分かります」その顔には、都島友の会を、施設を、何より子どもたちを守る決心が見えた。
◇
あの時の度胸と根性そして覚悟があれば、と正子は思った。正子に呼ばれて理事長室に現れた歌子は、正子の顔を見ると、今回は何を言いつけられるんだろうという表情を浮かべた。