第2弾 比嘉正子物語 蒼天に咲くひまわりの愛 全30回

12 「母の会」の始まり

情熱に駆られて突っ走る正子だったが、ほんとうに何もない所に子どもたちが集まるのだろうか、という心配はあった。「子どもをあずかってあげましょうと、言って集めればいい」尊師、志賀志那人(しがしなと)の言葉どおり、子どもの声がする家を「お宅のお子さんを預からせてください」と訪ね歩きもして、開園のピーアールに勤しんだ。

志賀は「金を出すことはできないが、わたしの名はいくら使ってもよい」と言ってくれ、顧問になってくれた。そして、その人望から都島の王様と呼ばれていた山野平一(やまのへいいち)という人物が、名誉園長になってくれた。このとき市会議員であった山野平一は、大阪市会議長を務めた後、衆議院議員となり、その職を退いた後も終世、社会に奉仕した人物である。志賀志那人、山野平一という両雄が力を添えてくれ、子どもたちは四十五人集まった。

 正子の計画を知って三人の女性が奉仕を申し出てくれた。一人は夫賀盛の同僚夫人で、かつて小学校の教諭をしていた人だ。そして都島の地域から二人。それぞれ、「気ままな未亡人だから」「家で遊んでいるなら」と手を挙げてくれた。園児が四十五人、正子を含めた保母四人でのスタートとなった。

園児と保母が集まり、梅の花が香る中、都島第四小学校の教室の一つを借りて、入園式を行った。演説の経験などない若い正子は、園児や保護者たちの前に立ち胸がドキドキするばかりだった。名誉園長の山野平一が久留米絣の袴と羽織という肩肘はらない姿で祝辞を述べに来てくれて、和やかななかに風格のある式となった。

1931(昭和6)年3月1日、保育を開始した。月々の保育料が1円、「母の会」の会費が20銭、保母たちの給料が8円だった。ちなみに国会図書館提供の資料によると、この昭和6年の小学校教員の初任給が45円から55円だった。

正子は開園と同時に「母の会」をつくった。沖縄の善隣幼稚園の、保母と母親たちが一緒になって子どもたちを保育することを目指した「母親の会」。神学校時代に実習を受けていたミード社会館の、子どもたちの家庭との交流を深めるための「母の会」。そして、大阪北市民館保育組合は、志賀志那人の「保育者と母親の間の信頼と友愛が保育の望ましい環境を整えていく」という考えによる、いわば「母の会」と保育者との共同体だった。

正子の中に根づいた、保母と母親と、そして地域が三位一体となって子どもたちを守り育てていくという思想。北都学園も北市民館保育組合と同様に、園に子どもをあずけていない人も広く母の会に受け入れた。青空の下、公園を園舎に始めた北都学園だったが、地域で子どもの保育環境を整える共同体を築いていくのだという大きなビジョンが正子の中にあった。

朝9時に北都学園集合場所で出席点呼を済ませると、都島小公園に向かった。木陰で紙芝居やお話をしたり、歌ったり、お遊戯やゲームをするのが日課だった。園児四十五名と一緒に、自分の子ども三人も連れて行った。上の二人は園児たちの中に放り込み、末っ子は乳母車の中に荷物と一緒に積んでおくのが常だった。

保育を開始してまもなく、公園の隅っこに小さな女の子がぽつんと立っているのを見つけた。お遊戯をしている園児たちの様子をじっと見ている。辺りに母親らしき姿は見当たらない。「どうしたの」と聞いてみると、園児の一人の妹だった。楽しそうに出かけていく兄についてきてしまったようだ。「それなら、あんたもこっちにお入りなさい」と、正子はその女の子を園児たちのなかに入れた。

その日以来、その子は兄と一緒に来るようになり、北都学園最初の卒園生の一人となった。それから七十一年後、この子が、正子の理想を受け継いだ承継者がつくった高齢者施設の、最初の居住者として戻ってくることを、この日の正子が知る由もない。

七十余年の時を経て、人生の最期はまたあそこに戻りたいと思うほど、子どもたちにとって大好きな居場所。北都学園がそういう居場所となるには、正子たち保母の泣き笑いの奮闘があった。

たとえばこんなこと。毎朝、大きなヤカンいっぱいに茶を用意していったのだが、何しろ大人数だ。足りなくなると、からのヤカンに、公園の水道の水を汲んで飲ませていた。ただ公園唯一の水道は、トイレに設えられていた。ある日、「トイレの水を飲ませた」と、父親の一人から苦情がきた。トイレの中にあるが上水道で、水は家の台所と変わらない。「あらまあ、トイレの中にあっても、水は家庭の水道と同じものなのに」と言いたかったが口には出せなかった。若い正子は、理不尽だと思いながらも、「すみません」と謝るだけだった。

保育開始から初めての雨の日、四人の保母は戸惑い、はたと顔を見合わせた。どうしましょうかと相談して、集会所の土間でピアノを弾いて歌とお話で過ごした。けれど昼までも時間がもたなかった。しかたなく「雨降りの日は午前中だけの保育」という方針を立てて、切り抜けることにした。そうすると、雨の日には昼からの分の保育料をお返ししなければと、別の思案が浮かんできた。走りながら考える日々だった。

何よりも、子どもたちにとって来たい場所、安全な居場所になることだった。一緒になって、子どもたちを守ってくれる三人の保母たちと、知恵と機転を働かせた。毎日がその連続だった。

空模様のよい日も、公園で安穏と時間を過ごせるわけではなかった。公園には当然ピアノがなかった。歌唱にしろ遊戯にしろ、保母たちの歌声と手拍子に合わせてするよりなかった。楽器がないというのは思いのほか不便だった。子どもたちが飽きずに続けられる時間も違ってくるし、保育の質にも影響した。音楽に合わせて身体を動かすというのは、身体能力や情緒の発達にも大事なことだった。

そこで正子は子どもの楽隊を編成した。楽器は、ラッパ、トライアングル、タンバリン、シンバル、そして鼓笛隊の大太鼓など。長い長いとんがり帽子を揃いで被った子どもたちが、プカプカドンドンと演奏するのだ。それでも公園にいることに飽きてきたなと思うと、楽器を鳴らしながら都島区内を行進した。

楽器を鳴らしながら行進する子どもたちの楽しそうな姿。その愛らしい姿を名誉園長の山野平一に見てもらいたくなった。5月のある日、あるたけの敬愛を込めてプカプカドンドン、プカプカドンドンと、山野宅に勢いよくくりこんだ。さあ、山野先生もきっと目を細めて喜んでくださると思いきや、その表情は渋かった。

「君、幼い子らを毎日毎日、連れ歩くことはどうかな。もしケガでもさせたらどうするのか。親御さんに申し訳がない。わたしの名前を使っている以上、わたしも責任を負っている。気をつけてくれ」

喜ばれるどころか、きついお叱りを受けて肩を落としての帰路となった。

だが、がっかりで終わる正子ではなかった。山野の言葉は事実だった。五十人近い子どもたちを四人の保母で連れ歩くのは正子たちにとっても緊張の連続だった。特に正子には大阪北市民館保育組合の郊外保育で、子どもの一人が田圃脇の野壺にはまった経験があった。どれほど注意をしていようとも、不測の事態というのは、一瞬目を離した隙に起きてしまうものなのだ。3月から5月の気候のよいころですらこの神経の使いようだ。そろそろ夏場になる。カンカン照りの中を連れて歩くのはケガや不調のもと。どれほど神経が擦り減るだろうかと思うだけでも、胃がキュッとなった。こうしてはいられないと、正子は「母の会」の会長、吉川和子(よしかわかずこ)に連絡をとった。

目次

感想をおくる