第11話 青空保育園誕生

休閑中の田んぼや季節の作物が植わった畑の後ろには、ぼうぼうと青草が生えた田園跡が広がっている。足元の草むらでは蛙がぴょんぴょん跳ねている。京都九条から大阪梅田を東西に結ぶ国道が一本走り、木造住宅があちらこちらに点在している。軒先で商いしている様子はなく、どこも勤め人の住宅のようだ。
「都島にいって保育園をやってみないか。公園の木陰、太陽の下、立派な園舎である。きみならやれる。今日からでもいってやりなさい」突然、志賀志那人(しがしなと)にそう言われてから三日目。正子は都島に来ていた。末っ子を背負っての実地調査だ。
保育園が一つもない都島の保育状況に思い余った志賀から、都島で保育園を始めないかと言われてから、やると決めるまで二日とかからなかった。
苛烈な問題を抱える大阪の都市福祉を推し進め、国内外からの注目の中で自分の思想を実践し続けてきた志賀支那人。その志賀から発せられた保育理念の一言ひと言が正子の胸を貫いた。家に帰り、夫や子どもたちとのいつもの日常に戻ってからも、志賀の言葉は響き続け、正子の内に浸みていった。
沖縄の親元と、女子神学校の寄宿舎での暮らししか知らなかった二十歳過ぎの娘が、大阪を代表するスラムに飛び込んだ。その苛烈な現実に打ちのめされ、穏やかな結婚生活に入った。温厚な夫と三人の子どもたちに囲まれ、慌ただしくも温かく楽しい毎日に恵まれていた。その平穏な日々に埋もれていた社会事業への情熱が、志賀志那人の熱い言葉によって呼び起こされた。
「やれる。きっと、やれる」
琉球国の士族として科挙を目指し、廃藩置県によって王府がなくなった後も、村人たちの力になり続けていた父のヒューマニズム。バプテスト女子神学校で培った社会事業への思い。そして神学校の社会学の講義で学び傾倒した『世の中から貧困と不平等を無くさない限り人類は救われない』という考え。
学んできた思想の実現に自分も加わりたい。そのために社会の坩堝に飛び込んで働こうと決めた情熱。自分自身が、我が子の行く末を思う母となり、志賀が説く保育の重要性は以前にも増して身に浸みた。揺り起こされた情熱は、以前にも増して強い炎となって燃え上がった。
「よし、やろう」
志賀支那人と会った三日後、二十六歳の正子は、末っ子を背負って都島の町を歩いていた。
◇
都島は大川の東沿いに長く伸び、北側は淀川に、南側は寝屋川に沿う三方を川に囲まれた町である。古代から洪水や氾濫が繰り返し起こり、仁徳天皇の時代から河川の改修や築堤工事が盛んに行われてきた。その水害の頻度は記録によると、601(推古天皇九)年から1925(大正14)年までの千三百二十五年間に二百五十回。五〜六年に一回の割合で、この地は洪水や氾濫に見舞われてきたことになる。
川に囲まれ洪水や氾濫に泣いてきた都島だが、その水路によって産業の発展もあった。明治半ばから昭和の初めにかけて水路の活用によって紡績業、製鉄産業等を大きく発展させ、東洋のマンチェスターと称された大阪。都島にも鐘淵紡績株式会社の繊維工場などの大きな工場が建ち、周辺に中小規模の工場が建ち並んだ。昭和40年代後半に公害が社会問題となるまでその姿は続いた。
◇
正子が志賀支那人からの言葉を受けて都島に実地調査に訪れたのは、1931(昭和6)年。都島には中小規模の工場主、大中小の工場に勤める人たち、その人たちに向けての商売を営む人たちが暮らしていた。子どもを背負い、町の様子を見ながら歩いていると公園があった。現在の都島四丁目に都島小公園があった。三丁目との境目で都島の町のちょうど真ん中あたりに位置している。
「ここは青空園舎に恰好の場所だ」
正子の心は躍った。 弾む心で足取り軽く付近をうろうろしていると、公園から5メートルほど離れた所に貸家があった。商店向けらしく間口三間の木造二階建て。家主は探すまでもなく貸家の隣であった。正子は家主の家に飛び込むや、早々と借りる話をまとめて家に飛んで帰った。
子どもたちの世話と夕餉の支度をしながら、夫賀盛にどう話を切り出そうかと考えていた。実地調査にいったその足で貸家を見つけ、その場で借りる話をまとめてきたのだ。どうやって口説き落とすか、作戦を考えているうちに話を聞いてほしい気もちが先に立ってきて、夫の帰りが待ち遠しくてしかたなくなってきた。
夕餉を済ませ、子どもたちを寝かしつけると、さあいよいよと話を切り出した。まずは実地調査の報告から。読んでいた夕刊を置いて調査報告の一言ひと言に耳を傾ける夫の姿に、正子は勢いづいた。
「まあ、そんなわけで、やってみたいと思うので、どうか了承してください。親子五人の暮らしはあなたがみてくださる。たとえわたしが失敗しても…無手勝流でやっていきますので、そういうこともあるかもしれませんが、でも親子が飢えることはないと思います」
話すほどに熱を帯びて一気に言い終えた。賀盛は黙ったままだ。うんとも言わないが、反対する様子もない。正子は「よろしくお願いします」と頭をさげて話を終えた。
そうと決まったら、じっとしてはいられない。さあ都島へと思ったものの、さて引っ越し費用や敷金をどうするか。貯金は一銭もない。結婚当初には夫賀盛の蓄えがあったが、次々と三人の子どもに恵まれ、家計のやりくりに不慣れな正子のために、夫はそれをすべて手渡してくれた。さあ、困ったと思いあぐねていたら助けてくれる人が現れた。三人の子どもの出産で世話になった産婆さん(助産師)が事情を知って、「ご主人が帝国銀行(現三井住友銀行)にお勤めですもの。信用しています。わたしがご用立てしましょう」と、敷金と引っ越し費用を貸してくれた。
それまで頭を痛めていたことなどケロリと忘れて、幸先良しと、踊る心ですぐに引っ越しの手配をした。阪急天六線(現阪急電鉄千里線)淡路駅近くの家を引き払い、都島へと移り住んだ。二階の六畳二間を一家五人の住居にして、一階の土間は子どもたちの集会所にあてた。
最小限のピアノと机と椅子を、フレーベル館から月賦払いで購入して備え付けた。経営の経験もない二十六歳の自分に月賦でそれだけのものを売ってくれたフレーベル館も創立の恩人だった。創立から五十年、六十年を迎えて、いくつもの園を経営するようになってからも、正子はフレーベル館の品物を購入するように園長たちに奨め続けた。ピアノと机と椅子を備えて、小さいながらも子どもたちの場所が整った。
正子は『北都学園集合場所』と看板を掲げた。北斗七星の『北』と都島の『都』、そして子どもたちが学び育つ『学園』だった。掲げたばかりの看板の『北都学園集合場所』の文字が目にしみた。「あなたはゼロから立ち上がって、やってごらんなさい」という恩師志賀志那人の言葉どおり、ゼロからの出発。
託児所と幼稚園を併せた福祉的幼稚園。「保育こそ救貧の根幹」「保育は教育」という志賀志那人の思想は、正子の中にしっかりと根づいていた。あずかった子どもたちの世話をするだけではない。子どもたちの将来の基盤となる教育も行うのだ。日の光を受けて艶やかに光る墨色の「北都学園」の文字に、意欲が高まっていく。 「いまにも、でっかい大きな学園ができそうじゃないか」