プロローグ

六歳前後の子どもたちが五、六人、木陰の床几に並んで座っている。揃って真剣な顔で、丸とも俵とも三角ともつかないぶかっこうな握り飯を、黙々と頬張っている。その様子を、木陰の主の太い幹を背に立って、同じ年頃のおかっぱ頭の少女が嬉しそうに見ている。手には、飯粒が一つ二つくっついた大皿を持っている。ぶかっこうな握り飯は、少女が近所の子どもたちにふるまおうと、小さな手を真っ赤にしながら握った。少女の家は琉球の時代から続く造り酒屋だ。今日、酒蔵で泡盛用の米を蒸していたので、握り飯をつくって近所の子どもたちにふるまった。
この辺では米の飯は贅沢だったが、造り酒屋の少女の家には泡盛用の米があった。このときだけは特別に食べさせてもらう握り飯を、近所の子どもたちにも分けてやりたいと父親に頼んで始めたことだった。
◇
濃い緑の樹々が繁る丘陵に、赤い瓦屋根と茅葺き屋根が広がっている。赤い瓦屋根の所々に立つ煙突は、かつてこの町が琉球王府に納める泡盛造りで栄えていた歴史を物語っている。ここは明治から大正へと変わる1910年代初頭の沖縄県首里市金城町である。
家々の前にはがっしりとした石垣が連なる。石垣と石垣に挟まれた石畳の坂道は、首里の町の中心へと伸びていく。その坂道を跳ねるように一人の少女が上ってくる。近所の子どもたちの先頭に立って南国の太陽のもとを駆けまわる毎日で、濃い小麦色になった顔の真ん中に、くりっとした目が輝いている。
少女は坂を上り詰め、まっすぐに切り立った崖を背負った家の前で立ち止まった。石垣の向こうに見える瓦屋根の上を、煙突からの煙がさーっと横切っていく。おかっぱに切りそろえた髪が風に煽られ、彼女の顔にかぶさった。少女は風上を向いて顔で風を受ける。くっきりとした眉に意思の強さが表れているようだった。
門から細い縞の木綿の着物を着た男の人が出てきた。少女は「はいたい」と頭を下げた。「はいー、はいさい」と挨拶を返す男の顔には満面の笑みが溢れている。その両手には木綿の布でくるんだ小さな包みがあった。胸元に抱えるようにしている小さな包みを見て、少女は「いい手紙だったんだな」と思った。坂を下りていく後ろ姿も嬉しげに見える。その姿を見ていると、まるで自分にもいいことがあったような気もちになってくる。
「あの人に手紙を読んであげたお父さんも、こんな気もちなんだろうか」少女は時おり吹いてくる風を頬に受けながら、小さくなっていく男の人の後ろ姿を眺めた。
いつしか少女の視線は、坂道が吸い込まれていく先へと移っていった。家の前から伸びる坂は、緩やかな曲線を描きながら首里の町へと伸びていき、王家の別邸識名園や、琉球八社の一つに数えられる識名宮のある、識名への登り坂に繋がっていく。金城町からの石畳と識名坂を結ぶ金城橋には、夜になると二つの遺念火(沖縄地方に伝わる火の妖怪)が出るという昔話がある。暴漢に襲われ橋から身を投げた妻の後を追い、その日迎えが遅くなり夜道を一人で歩かせたことを悔いた夫も、橋から身を投げた。その二人の魂が夜になると、遺念火になって橋の上に並ぶというのだ。
少女は夜、家の前から識名坂をゆらゆらと上り下りする灯りを見るたび、その話を思い出した。 識名坂は識名と首里を繋ぐ唯一の道で、首里の市場での商いを終えて夜道を帰っていく人の提灯が、ゆらゆらと揺れていたのだが、幼い少女は父の膝で聞いた遺念火の話を思い出し、その灯りが見えるといつも急いで家の中に入ったのだった。
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少女の名は渡嘉敷周子(とかしきしゅうこ)、後に比嘉正子(ひがまさこ)として世に出る。正子は、1905(明治38)年3月5日、沖縄県首里市金城町の青天のもとに生まれた。結婚して比嘉周子となり、その後、ペンネームとして使っていた正子を公称とし、比嘉正子として活躍する。日本の保育のパイオニアであり、日本の消費者運動の生みの親である比嘉正子だ。
敗戦直後の日本で、「子どもたちを飢えさせないためにお米をください」と、GHQに乗り込んで直談判。それを機に、戦後の食糧危機打開のために始めた運動を、日本で初めての消費者運動として育てていった。実践主義の消費者運動で生活者を守り続け、日本の消費者運動の生みの親と呼ばれる比嘉正子は、自身の本業は社会事業であると語っている。
正子は、1931(昭和6)年早春、保育と幼児教育を併せた福祉的幼稚園をつくった。現代の幼保連携型認定子ども園の原型ともいえる保育施設だった。以降、先見の明で生活者の必要に応じた児童福祉を展開。ゼロ歳児保育の前例をつくって行政を動かし、障がい児保育、学童保育などを率先して展開、日本の保育のパイオニアとして走り続けた。 ここに著するのは、保育を軸に地域社会づくりを推し進めた社会事業家、比嘉正子の物語である。