第2弾 比嘉正子物語 蒼天に咲くひまわりの愛 全30回

39 故郷、沖縄に保育園を|風土の中に

煩雑な手続き、費用の高騰と、困難を乗り越えての子どもの殿堂、「渡保育園」の建設。次に待ち受けていたのは、事業を軌道にのせることだった。沖縄を離れて五十年。その間の帰郷は1961(昭和36)年以来、数度。故郷とはいえ地縁はないに等しく、またゼロからの出発といってもよかった。

そんな正子を支え、事業を軌道にのせるために献身的な活躍をしてくれたのが、伊禮蓉子、正義夫妻だった。伊禮夫妻との交流のはじまりは、妻蓉子との出会いだった。

四十年ぶりの帰郷を果たした1961(昭和36)年、正子は沖縄の消費経済の調査を行った。実際に市場に足を運んで物価を知るところからはじめる関西主婦連のスタイルだった。知りたいことがあれば現場に足を運ぶ、直接会って話をする。事実のうえに真実を探っていく。長く離れていた故郷沖縄についても、先入観を持たない素直な目と耳で、ほんとうのことを知るところからはじめた。

戦後の食糧危機のなか子どもたちを飢餓から守ろうと、闇値に対抗する「主婦の店」をつくり、日本の消費者運動の旗手として活躍してきた比嘉正子。彼女をリーダーにおかみさんたちが広く連帯し、生活を守る闘いを繰り広げてきた関西主婦連合会。消費者運動、婦人運動の旗手として活躍する比嘉正子の講演会に集まった女性たちは、政府の諮問機関「物価問題懇談会」の委員になっても、台所に立つ生活者として地に足のついた活動を続ける正子の姿に、よりいっそうの信頼を置いた。

1972年、願っていた沖縄の日本復帰が実現。正子は関西主婦連合会の沖縄支部発足に動いた。住民の安全と福祉を勝ち取るために、幹部たちと共に沖縄を訪れた。正子の熱い思いは、正子を歓迎する女性たちの胸深くに届いた。この年、1972年9月21日、関西主婦連合会の沖縄支部が誕生した。支部長となったのが伊禮蓉子だった。

沖縄本土復帰前の講演会で出会った正子と蓉子は、乳幼児保育の大切さについても考えを同じにしていた。

かつて教職についていた蓉子は、教員時代から乳幼児期の大切さを痛感していた。教職を離れてからは、「良い子を守る母親の会」会長や、青少年の健全育成に向けて保護司を務めていた。乳幼児期の大切さを実感する蓉子は、比嘉正子が日本の保育と幼児教育のパイオニアであることも知っていた。講演会で出会った正子に、蓉子は幼児教育への思いを語った。

生家の土地に保育園を開設すると決まったとき、正子はすぐさま伊禮蓉子に伝えた。沖縄での保育事業を任せるのは彼女をおいて他になかった。蓉子の夫伊禮正義は建設費への援助に1千万円を寄付し、蓉子と共に事業を軌道にのせるために貢献した。

「子どもたちを緑豊かな環境の中で育てたい」蓉子もそう考えていた。正子は初代園長の責務を任せる蓉子の考えを、渡保育園の設計に積極的に取り入れた。

渡保育園の建設地となったのは、琉球王府に納める泡盛造りを担っていた正子の生家で、首里城にほど近い首里市金城町にあった。そんな県指定の史跡や市の指定史跡が点在し、自然環境にも恵まれた立地をどう生かすか。沖縄の豊かな歴史と自然の中で、子どもたちが伸びやかに育つ環境をつくろうと意見を重ねた。

沖縄の豊かな歴史や風土のなかで、おもいきり体を動かしてのびのびと育ってほしい。子どもたちが遊ぶ園庭には桜、梅、デイゴ、ヤシなどの木々を植えた。南国におとずれる小さな四季の変化を映し出し、夏には涼しい風が吹いた。保育園の前の坂道をくだると県指定史跡の石畳に出る。その石畳をのぼっていくと市指定史跡の金城大樋川(カナグスク・ウフヒージャー)という、石造りの大きな共同井戸がある。各家庭に水道が引かれるまでは、地下岩盤からの湧き水を樋を水路に引いてきて生活用水として使っていた。夏の日、園児たちは石畳の坂をのぼり、この樋から流れでる大樋川の清流遊びを楽しむこともあった。

心身ともに健やかで、やさしく思いやりがあり、ものごとをよく見て深く考え、何事も根気よくやり通すことのできる子ども。幼児教育の大切さを唱え続けてきた伊禮蓉子は、「健康、情操、思考力、忍耐力」を養うことを渡保育園の保育理念とした。それは「知・体・徳」を育てる正子の保育理念に通じていた。

渡保育園開設から七年経った1981(昭和56)年、社会福祉法人都島友の会は創立五十周年を迎えた。この間に大阪の都島では、都島児童センターにおける身障児療育の実績により、大阪市から、知的障がい児を受け入れる「都島こども園」と、知的発達遅延児も受け入れる「都島東保育園」の運営を受託。沖縄の「渡保育園」も、障がい児保育の那覇市指定園となり、障がい児の心身の発達を助けながら、健常児の心に、いたわり、やさしさを育てる保育を行っていた。

地域の人の生活を見つめ、十年先の町の姿を見据えて展開してきた保育事業。正子は創立五十周年の記念事業の一つとして、沖縄に二つ目の保育園を開設すると決めた。

1980(昭和55)年ごろ、渡保育園から首里城をはさんで北西にある古島地域が、新興住宅地として栄えつつあった。新しく町が開かれれば、保育所を必要とする家庭が増える。正子の決断と行動は早かった。

伊禮正義は渡保育園建設への協力を機に法人の理事となり、渡保育園の園長を務める妻蓉子と共に沖縄における保育園運営に尽力している。古島の町の将来を見据えた正子の計画に賛同し、保有の土地を進んで提供した。渡保育園建設への協力以来、経営に貢献している伊禮正義が古島に保有する土地を買い上げた。

土地を確保した。次は設計だ。新興住宅地なら、若い世代の人たちも多いだろう。新しい町の子どもの殿堂にふさわしい建物にしよう。そう考えた正子は、アメリカ帰りの若い設計士に設計を託した。

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