第6話 自律する女性像

背が高くふくよかなミス・L・ミードは柔和な人柄の人格者だった。生徒に話をするときは肩に手をかけて自分の体にひきよせ、庭を散歩しながら静かに話すのが常だった。校長と生徒というよりも、祖母と孫というような温かみのある接し方で、穏やかに話すのだった。
ある休日、正子が寄宿舎のルームメイトと遊びに出かけようとしていた矢先、ミス・L・ミードから校長室の窓拭きを言いつけられた。正子たちはむくれて不平を言いながらいい加減に済ませて、さっさと遊びに出かけてしまった。夜になり、昼間の窓拭きのことなど忘れて部屋で過ごしていると、ミス・L・ミードに呼ばれた。部屋を訪ねると「娘たち、ありがとう」と二人に5円ずつ手渡した。
救いを求めてくる苦学生に、いきなり金銭を恵むことはしないのがミス・L・ミードの方針だった。庭の草むしりや植木の葉刈、掃除など何かしらの作業をさせてから労賃として差し出すのだった。その日、正子たちに言いつけた窓拭きも、小遣いに不足しているだろうと思いやってのことだったのだ。手渡された5円は重かった。
「校長先生のお心も知らず、不平タラタラ、いい加減な作業をした私の罪をどうぞお許しください」と、正子たちは部屋に戻ると懺悔してひたすら許しを乞うた。授業での学びだけではなく、日常生活の中でミス・L・ミードをはじめ、教師や宣教師たちから教えられる人としての在り方は、思春期の正子の精神に静かに浸透していった。
宣教師としてアメリカから来たミス・L・ミードは、正子よりも広く日本を経験していた。沖縄にも駐在していたことのあるミス・L・ミードは、ひとり沖縄から来ていた正子をよく自分の傍においた。「貧しき子、小遣い稼ぎ、しなさい」とユーモアを交えて正子を呼ぶと、白髪を抜かせながらいろいろと話して聞かせた。
正子は、ミス・L・ミードと二人で過ごすこの時間が好きだった。想像すらしたことのない、見知らぬ世界の話を聞くことは、旺盛な好奇心と知識欲を充たした。そしてまたそれは、正子の内の少女の心を満たす時間でもあった。正子は母親との縁が薄かった。幼いころに三人変わったどの母親との間にも懐かしむような思い出がない。ふくよかで柔和なミス・L・ミードの後ろに立って、白髪を一本一本抜きながら、自分だけを相手に話す声に耳を傾ける。その和やかな時間はどこか母と娘の時間に似ていた。
人としてどうあるべきか。ミス・L・ミードとの出会いは正子の考えや行いに影響を与えた。なかでも彼女に見たアメリカ人女性の姿は、正子に衝撃を与えた。「何事も自分で考えるのですよ。人は自分で考え、行動していくのです」と教えるミス・L・ミードは、穏やかだがはっきりと自分の意思を表す人だった。
ひとりの人間として自分の意思をはっきりと言葉に表し、行動に移していく。アメリカ人女性、ミス・L・ミードの在り方。それは正子がいままで見知ってきた日本の女性たちの姿と違っていた。その女性像の違いは、心の奥深くの何かを揺り起こす衝撃のような驚きだった。その驚きは、ミス・L・ミードが説くヒューマニズム、それを世の中に実現していく社会事業についての理念と溶け合って、正子の内深くに浸みていった。
ミス・L・ミードはバプテスト女子神学校に合わせてミード社会館というセツルメントの施設をつくっていた。セツルメントとは、1884(明治17 )年にロンドンのトインビー・ホールという施設を発祥に生まれた社会事業だ。当時の階級社会で、中産階級の知識人が下層階級が多く住む貧困地域の中に住み、住民と隣人としての連帯を築いて地域の人々の生活、精神的な向上を図た。この事業は、イギリス各地で発展していき、やがてアメリカにも渡った。日本に初めてセツルメント施設ができたのは1897(明治30)年である。
正子たち神学校の生徒が実習を行っていたのは、このミード社会館においてだった。ミード社会館には幼稚園があり、五十数名の園児が通っていた。幼稚園は隣人たちにむけての開かれた場でもあった。この環境の中で正子は、バイブル・ウーマンとしての地域の隣人たちと触れ合い、社会のために働き、貢献する福祉の心を育てていった。
◇
正子は三年生になり、週に二度、社会学の講義を受けるようになった。講師は河上丈太郎という関西学院大学で教鞭をとる人だった。この数年後、議員となり、西欧型の社会主義を模範に政治活動を行い、後に旧社会党委員長を歴任することになる人である。その河上丈太郎の講義の中で、「世の中から貧困と不平等を無くさないかぎり人類は救われない」という言葉を聞いた。
この言葉に正子は愕然とした。バイブルを学び、精神主義で人類は救われると固く信じていた心がぐらぐらと揺れた。この言葉は頭から離れることがなく、やがて正子自身の考えとなっていった。
「世の中から貧困と不平等を無くさないかぎり人類は救われない」。この考えを得て、正子は深く悩みはじめた。
「このまま教会で働くよりも、社会の坩堝(るつぼ)に飛び込んで働いた方がいいのではないか、それが神の御旨(みむね)に適うのではないだろうか」
「しかしそれは、ミッションを裏切る行為ではないか」
「いや、ここで学んだ理論を社会で実践することもまた、ミッションではないのか」
正子が伝道師への道を歩むことを喜び、神学校への入学を推薦してくれた沖縄の恩師、東恩納と永田つる子。「あなたは神から選ばれた使徒です。よき伝道者になるように」と、神学校へ進む正子を祝福してくれたタムソン牧師。思いやりと温かさをもって指導してくれた神学校の教授たち。そして、人の道を説き、アメリカという国が愛する自由を教え、その自由を生きる女性の在り方を教えてくれたミス・L・ミード。その人たちを思うと、ミッションを果たさずに教会を出るという選択は、胸が張り裂けるように痛かった。
敬愛する人たちへの思いと燃え立つ情熱の間で、正子は自分の胸に問うた。「人として正しいと思う道はどちらなのか」自分の意思を持ち、行動する。ミス・L・ミードから学んだ女性の姿、人としての在り方。
葛藤の中で正子は、スラムの中に入り貧困に苦しむ人々の救済に身を投じる、賀川豊彦というキリスト教者に共感した。「自分自身も泥にまみれてやらなければ嘘だ」という信念が生まれた。「キリスト教のヒューマニズムで、果たしてこの世は救えるものだろうか。教会の中で賛美歌を歌い、説教をしているだけでは無意味だ」それが正子の決断だった。
「自分の心を欺いて伝道師になったとしても、それはけして神の御旨に添うものではない。ここで学んだ理念を現実社会のなかで行動として実践していく。それが自分に示された道だ」
心が決まれば躊躇はなかった。1926(大正15)年の正月早々、神学校卒業を三カ月後に控えたある日、正子は神学校を抜け出し、そのまま戻らなかった。学校では行方不明になったと大騒ぎになった。正子の身の安全を確認したミス・L・ミードは、何よりほっとした表情で、学校を後にするに至った事情を尋ねた。三年間、学費も寄宿舎費もミッションの負担で学んできた正子たち生徒には義務があった。ミード社会館でバイブル・ウーマンとして働き、その後はそれぞれ故郷に帰って伝道に務めるという約束だった。
「娘よ、よく、わかりました」 学校を出るに至った正子の思いを知ったミス・L・ミードは広い心で理解を示してそのまま正子を送り出し、卒業者名簿に正子の名を記した。