第2弾 比嘉正子物語 蒼天に咲くひまわりの愛 全30回

48 今に息吹く比嘉正子の魂

ゼロ歳から百歳まで潤って暮らせる地域社会づくり。それは比嘉正子が晩年描いた夢。高齢者が孤独になることなく、自主性をもって美しく人生を終えていける環境を整える。正子亡き後、その意思を継いで、渡久地歌子はデイサービスで高齢福祉に乗り出し、さらに特別養護老人ホーム建設に動いた。

1992(平成4)年、正子が逝った後、正子の三女、仲田貞子が社会福祉法人都島友の会の二代目理事長に就任、渡久地歌子は常務理事となった。先見の明と柔軟な発想、物事の本質を捉える感性、現実を動かしていく実践力。そして何より、人を惹きつける魅力、カリスマ性。受け継いだ二人は、日を追うごとに比嘉正子の大きさを実感した。

比嘉正子が人生をかけて築いた社会福祉法人都島友の会を、地域との輪を、守り抜かねばならない。正子が種を撒き、育ててきた木を、青空に向けて成長させていかねばならない。

理事長の職を継いだ仲田貞子は正子の従姉妹の娘で、戦時中、正子宅に身を寄せ、そのまま賀盛と正子夫妻の養女になった。ミッション系の女学校卒業後、都島児童館の保母となり正子の事業に加わった。都島乳児保育所開設時には、保母のキャリアと自身の育児経験で、ゼロ歳からの乳児保育専門施設という他に類のなかった事業の成功に尽力した。

渡久地歌子は、医療の世界に入ろうと単身大阪に出てきたところで正子に出会い、縁の巡り合わせというように正子によって社会事業の道に導かれ、理念と行動を教え込まれてきた。まだ経験が浅かったころの歌子が理屈を言いだすと、「ひとまず私の言ったとおりにしなさい。実際にやってみることで、私の言ってる意味が分かってくるから」と正子は言った。行動によって理論の本当の意味を知るという正子の方針のもと、歌子は正子の教えを吸収していった。

容姿が華やかで人当たりのやわらかな貞子は、法人の顔となって社交の場に出た。歌子は、それまでの施設建設、運営の経験と、三井銀行(現三井住友銀行)曽根崎支店長を務めた比嘉賀盛に学んだ実務の力によって、法人の経営を担った。正子が併せ持っていた柔と剛の、柔を貞子が、剛を歌子が受けもって、ともかく比嘉正子が生涯をかけて築き上げたものを守り抜くことに必死だった。

1999(平成11)年、「友渕地域住宅サービスステーション ひまわり」を始めたら、「比嘉さんの都島児童館が、年寄りの世話も始めた」と人から人へと伝わり、「比嘉さんところのデイひまわり」と呼ばれるようになった。新たに始めた高齢事業に対する地域の人たちからの信頼に、正子が築いてきたものの大きさを実感した。と同時に、その手応えは地域の高齢福祉への期待であり、必要性を示してもいた。

デイサービスをとおして、高齢福祉の必要性が明らかに見えてきた。1931(昭和6)年の青空保育園開設から六十八年。二世代三世代に亘って都島児童センター(旧都島児童館)に通う園児の存在は、かつての園児や家族に高齢福祉の必要が生まれていることも意味している。

「地域の人たちの潤いある生活のために、できるかぎりのことをするんだよ。何をすれば地域社会がよくなるか、地域に貢献できるか。次はどうするか、目の前にある現実に対応しながら、十年先の地域の姿を見通して事業を展開していかないとだめなんだよ」

晩年、思うままに動けなくなった正子は、事業展開の責任者に任じた歌子に、折りに触れてそう言った。

特別養護老人ホームをつくろう。「友渕地域住宅サービスステーションひまわり」のオープンから一年程経った(平成12)年、歌子はそう決心した。土地の確保、資金調達、設計、建設、入居者の募集、運営、そして施設と地域との関係づくり。都島友渕保育園、都島桜宮保育園と施設の設計、建設、そして運営を経験してきた歌子だったが、自分の後ろには比嘉正子がいた。厳しい言葉もあったが、それ以上の安心があった。比嘉正子の名を出すだけで協力を惜しまない人たちもいた。「できるか…いや、やる」決意は怖さを飲み込んだ。

特別養護老人ホーム建設は初めてのことだらけだった。都島友渕保育園、都島桜宮保育園の二園は行政からの要請に応じた形だったが、今回は逆だった。市の要請に応えてデイサービスを開始した実績があったので一定の信頼を得てはいたが、許諾までの道のりは長かった。なぜ都島友の会が高齢施設をつくるのか。正当性を認められるまで、市と交渉に交渉を重ねた。

「ゼロ歳から百歳まで、住み慣れた町で生活ができるように高齢施設も始めるのです」

「デイサービスを始めて、入居施設を必要としている方たちが大勢いることを実感しました。そして都島友の会が高齢施設をやってくれるなら願ってもないと言ってくださる方がたくさんいらっしゃいます」

そう必死に交渉する歌子の周りには地域の人たちがあった。私たち地域の住人が望んでいる、私たちの必要に応えるための高齢施設なのだと、地域の人たちも一緒になって交渉に臨んでくれた。自分に勝るとも劣らない地域の人たちの熱意に、歌子は地域と共にある「都島友の会」と法人を名づけた正子の真意を見る思いがした。

いかに地域に貢献するか、地域のためにできることは何でもする。子どもからお年寄りまで皆が笑顔で、それぞれに事情はあっても、ここで暮らしてよかったと思える地域になるために、地域の人と力を合わせて住みよい環境をつくっていく。その思いを実践し続けた正子の生涯が、そこに結集されていると胸が熱くなった。地域あげての交渉の結果、2001(平成13)年、建設がはじまった。そして建設が進む中、都島児童センターのグラウンドで入居受付を行なった。真夏の日差しを遮るテントの下で、歌子自ら職員たちと並んで入居希望者を歓迎した。地域をあげての高齢施設建設実現に、入居申し込みに訪れる人たちの顔は明るかった。その中でひと際、期待に輝く顔があった。1931(昭和6)年、公園を園舎に始めた正子の青空保育園の元園児だった。

1931(昭和6)年3月、公園でお遊戯をする園児たちを眺めている子どもがいた。園児たちより少し幼かった。「どうしたの、お母さんは」と尋ねると、一人の園児の妹だった。毎朝、楽しそうに出かけていく兄についてきたのだった。「それなら、あんたもお入んなさい」と正子は園児の中に迎え入れた。次の日も次の日もその女の子はやってきて、とうとう翌年皆と一緒に記念すべき第一回修了式に参加し、修了証を受け取った。

都島友の会と地域の人たちが一丸となって高齢施設建設に乗り出していると聞いて、施設入居を考えていた彼女は「待つ。都島友の会の特養ができるまで待つ。入るならそこや」と言ったのだった。

2002(平成14)年春、特別養護老人ホーム「ひまわりの郷」がオープン、待ち望んでいた入居者たちの明るい声がそこここに響いた。そしてそこには「待つ」と言った、正子の保育園第一期卒園児の姿があった。

「りっぱな建物やなあ、気もちええなあ、待っててよかった。ただいまぁ、やな」

「いちばん良いものを提供することが、地域貢献になるんだよ」という正子の教えを守った歌子は、その言葉が誇らしかった。

「ともかくも親切で丁寧な職員の態度」。歌子はひまわりの郷の理念をそう定めた。

「家族ぐるみの楽しい生活ができるような老人の家をつくる」というのが、高齢福祉に目を向けた正子の晩年の夢だった。

もう一つの我が家と思われる家庭的な雰囲気とサービスを提供し、さらに入居者と家族、職員、地域のボランティアや子どもたちとの交流によって、孤独を感じない生活を送ってもらう。住み慣れた町の空気の中で、職員の温かなケアを受けて快適に暮らす。施設の一階にはオープンテラスのあるカフェテリアを設えて地域の人にも開放し、入居者と地域を繋いだ。また隣接する「ひがみや児童センター」や「子ども発達サポートステーションそれいゆ」との頻繁な交流を行なった。

この町で生きてきた人たちが、住み慣れた場所を離れず生涯を終えられる。ゼロ歳から百歳まで、孤独を感じず、安心して暮らせる環境をこの都島に整える。「ひまわりの郷」は、誰もがそれぞれに潤いのある生活ができる地域社会をつくるという比嘉正子の思い、社会事業家としての魂の息吹を受け継いでゆく、社会福祉法人 都島友の会の大きな前進だった。

1931(昭和6)年3月に正子が青空保育園を開いてから九十五年。新たな前進を始めた社会福祉法人都島友の会は、五年後の百周年(2031年)を目指して、自分たち根源である比嘉正子の心に、あらためて立ち返り事業を展開している。

そして、その比嘉正子の心を表すのが、正子のこの詞だ。

花にお日様
子どもに平和
強い子良い子はけんかをしない

お日様が花を育てるように、子どもたちが伸びやかに健やかに育つための環境が必要である。その環境づくりは大人の責任である。だから保育を軸にした地域社会をつくるのだ。そしてその環境の中で、自分の考えを表現し、人の考えに耳を傾け、互いを尊重して共に生きていく、自主性と社会性のある人間性を育てていく。そういうふうに子どもたちが育っていく環境をつくっていく。

この三行の詞に込められた正子の思いを、正子が構想し、志を継ぐものへと託していった。

今社会福祉法人都島友の会は、ゼロ歳から百歳まで潤って暮らせる地域社会づくりへと展開している。子どもの館をつくってきたように、自分の意思で、自分の将来を切り開き、懸命に生きてきた人が、人生の最期まで自立した生活を実現できる終の郷をつくり、地域社会貢献のために、その時々のいちばん良いものを提供し続けている。

〈次週エピローグ〉

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