第47話 安心して生んで老いていける町へ|意思を継いで
美しく人生を終えていくための、自主性をもった生活。その生活を支えるための環境づくり。それが正子自身が高齢者の一人となって描いた高齢者福祉の在り方だった。
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正子が北欧へ視察旅行に赴いた1975(昭和50)年、“揺りかごから墓場まで”の福祉実現への正子の思いを後押しする出来事が重なった。
1973(昭和48)年に、沖縄の渡保育園建設の資金繰りに奔走する正子に多額の寄付をしてくれた山本猛夫から、岐阜県奥飛騨の8250㎡の土地が寄贈された。山本猛夫は株式会社山善の創業者で、人気作家花登筐(はなとこばこ)の小説『どてらい男(やつ)』のモデルとなった。戦後の混乱のなか、その型破りな行動力で裸一貫から事業を成功させていく姿はテレビドラマにもなり、昭和四十年代に驚異的な視聴率を記録した。
ちょうど同じころ、某テレビ局の社長から「比嘉さん、婦人運動で一応の成功をおさめ、世の中に名も知られた今、この先に何をやりたいですか」と問われた。彼は生活を守るために闘い続けてきた正子の姿を知る人だった。
「老人福祉。子どもの殿堂の次は、老人の家。家族ぐるみの楽しい生活ができるような規模のね。場所も設計も決まってるの」正子は、そう即答した。このとき正子が思い描いていた岐阜での老人の家の建設は、実現ならなかった。が、その構想が正子の高齢福祉への情熱を高めた。
調査研究でも北欧視察旅行でも、そして地域の高齢者との会話でも、一貫して感じることがあった。それは老人を孤独にしてはいけないということだった。それを踏まえて、正子は日本的特色のある老人福祉の在り方として、新しい家族制度の開発を構想していた。
家族同居を基本の形に一家団欒のある暮らしを実現する。お互いのプライバシーを侵さないための個室をつくり、嫁姑の諍いも防ぐ。これは公営住宅政策で取り組むべきだとした。子どものない高齢者には老人ホームを用意する。これは国の政策と考えた。
福祉国家への政策の一つ、年金の充実により高齢者が経済的不安から解放されていくことは、若い世代を老人扶養の重荷から解放することに繋がる。さらに老人医療費支給制度で、高齢者は家族への負担を気に病むことなく、病弱を受けいれ人生の終焉へと安心して向かっていける。家族の手に負えぬ病人は特殊老人ホームや成人病センターに入院させて看取る。これは国策として取り組むことと考えた。
これだけの環境が整えられたら、憩いの場所や趣味、自分にできる社会奉仕を見つけるのは老人の仕事。生き甲斐をもって精神の自立を保てば、家族との関係もよくなるだろう。美しく人生を終えていくために自主性をもって生きていく、そのための心がけを持つことは、老人にもできることではないだろうか。
都島の地で保育を軸に地域社会づくりを続けてきた正子。半世紀を超える保育と幼児教育において、正子は子どもの自主性と社会性を育ててきた。この理念は、高齢福祉にも通じていた。たとえ年を取り、生活に人の助けが要るようになっても自分の意思をもって、社会の一員として生きていきたい。それは自らが高齢者になった正子の思いでもあった。そして保育が施設の中だけで行われるものではなく地域社会全体で行われるものであるように、高齢福祉も地域社会全体で行われるものだと正子は考えた。
「老人ホームをつくって、お年寄りをそこに収容すればいいというものではないんだよ」なかなか高齢福祉に具体的に動き出さない正子に、歌子が施設建設について話を向けるとそう答えた。「ゼロ歳から百歳までの方が、住み慣れたこの都島を離れて他所へ行かなくても、生涯、ここで潤いのある生活を送れるような環境をつくりたいんだよ」と。
社会事業家としての第一歩をセツルメントで踏み出し、都島に根をおろし、保育を軸に地域社会づくりに人生の大半を注いできた正子。揺りかごから墓場までの福祉を、ここ都島で実現することは正子の福祉人生の集大成だと、歌子は正子の言葉を胸に刻み込むように聞いた。
都島区の再開発事業に参画しての二つの保育園開設、沖縄に二つ目の保育園開設、大阪市の障がい児療育園の受託など、児童福祉に精力的に取り組むうちに正子は八十代半ばを越え、1992(平成4)年11月、八十八歳を目前にその生涯を終えた。
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正子が逝って五年後、1997(平成9)年のある日、常務理事と都島桜宮保育園の園長を兼務する渡久地歌子のもとに一本の電話があった。大阪市の保育児童福祉保育課の課長からだった。
「デイサービス、やってみぃひんか」
デイサービスは高齢者向けの通所介護サービス。保育課からの突然の連絡に歌子は驚いた。「高齢化がどんどん深刻になっていくのに、大阪市にはまだ一つもないんや。伝統のある福祉法人さん、五、六カ所に声をかけてるんやけど…どこか、ええ土地があればなぁ…とく(渡久)さん、考えてみてくれるか」
ざっくりとした説明だったが、電話の向うの声の真剣さに歌子の心は動いた。正子の三女で二代目理事長を継いでいた仲田貞子に、やってみましょうと話をとおすと、すぐに土地の確保に動いた。都島友渕保育園の近くに、うってつけの土地がある。歌子は友渕地区の再開発事業以来、交流がある土地開発事業者を訪ねた。
「大阪市からデイサービスの話がきたんです。高齢事業は未経験ですが、保育園の送迎でおじいちゃん、おばあちゃんたちとのお付き合いはあります。ぜひやってみたいんです」
正子が晩年思い描いた、ゼロ歳から百歳までが潤って暮らせる地域社会づくりへの一歩だという熱い思いが、歌子の言葉に力を与えた。「わかった、応援するよ」と、話を聞き終えた責任者は快諾した。
いきさつを聞いた土地の所有者、カネボウが大阪市に土地を寄付してくれ、それを大阪市から都島友の会に無償貸与するという手順で、土地が確保された。歌子は大阪市の指導を受けて、補助金申請や高齢事業開始に必要な手続きを行った。
1999(平成11)年、「友渕地域住宅サービスステーション ひまわり」がオープン。通所介護のデイサービスと居宅介護支援のケアプランセンター、介護支援センターを開始した。
高齢福祉への一歩を踏み出した歌子は、さらにそれから二年後の2001(平成13)年、特別養護老人ホーム建設に乗り出した。老人を孤独にしない高齢福祉。ゼロ歳から百歳まで、住民が安心して生んで老いていける町づくりへの挑戦。正子が晩年描いた夢を実現するのだと、力が湧いてきた。