第46話 安心して生んで老いていける町へ|老いて美しく
この町で生きてきた人たちが、住み慣れた場所を離れず生涯を終えられる。ゼロ歳から百歳まで、安心して暮らせる環境をこの都島に整える。社会の変化を先んじて保育を軸にした地域社会づくりを展開してきた正子の胸に、新たな情熱が湧き上がった。
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1971(昭和46)年の児童手当制度に続いて、1972(昭和47)年老人福祉法が改正され、老人医療費支給制度が創設された。1960年代半ばから認識されてきた人口の高齢化に加え、高度経済成長に伴う女性の社会進出、若年層を中心とした都市部への人口集中、核家族化、住宅事情など、1970年代になると老人問題は広がりをみせていた。経済と技術の大きな進歩の一方で、ともすれば人間の存在が見失われがちな社会のなかで、ようやく福祉国家への形態が整えられつつある。そう思う一方で正子は、「福祉優先」という言葉が流行する世態を一種の福祉ムードとも感じていた。
「福祉とはすべての人が健康で文化的かつ快適な生活を守られ、豊かな人間生活を実現できることを内包するものでなければならない」「社会のすべての活動の終着点が人類福祉にある」正子にとって福祉とは、救貧を越えて、広く生活の向上を目指すものだった。
言葉に酔い、ブームに流される福祉では、真に生活を、生活者を守ることはできない。福祉が虚像化されないように、何を目的に据え、どのような具体策を実施するのか。生活者の視点、福祉の現場の視点を、人に生き甲斐を与える福祉行政に結びつけるためにできることは何か。
老人医療費支給制度が創設された1972(昭和47)年、正子は会長を務める関西主婦連合会で、「私たちが望む社会福祉」をテーマに調査研究をはじめた。
1945 (昭和20 )年の晩夏、正子は敗戦直後の大阪で、子どもたちを飢餓から守るため、「お米をください」とGHQに直談判。疎開先のおかみさんたちと力を合わせて、食糧危機打開に奔走した。そのとき、おかみさんたちと立ち上げた「鴻池の主婦の会」が消費者運動の先駆者として走り続けた結果、関西を結ぶ婦人運動の連合会にまで発展したのが関西主婦連合会だ。
正子たちが行った高齢福祉研究は以下の内容で進められた。
①老人問題はなぜ起こったか、②現実の老人の姿、③現在の楽しい老人像、④老人の悔やみ、⑤高齢者の健康状況、⑥老人の暮らし向き、⑦高齢者の子の有無と同居別居の構成割合、⑧世界の自殺率の比較、⑨年金額等の国際比較、⑩望ましい老後生活像
調査の一つに、生活者の意識調査としてアンケートも実施。「どういうときに老後の幸不幸を感じるか」「望む家族構成」という二つのテーマについて、それぞれ10程の選択項目から当てはまるものに○をつけてもらった。関西一円の連合会の、二十代から七十代の会員の中から無作為に選んで郵送、回収率は九割を超えた。
正子は翌年1973(昭和48)年、大阪梅田の阪急百貨店での、第19回主婦の商品学校で「私たちが望む社会福祉」展を開催。子どもと老人福祉に焦点を絞り、社会福祉について皆で考え直そうと来場者に問いかけた。
福祉元年と呼ばれたこの年、福祉に関心を寄せる来場者が多く訪れ、なかでも高齢者の姿が目立った。
社会福祉に関心を寄せる高齢者の姿に、正子は老人福祉の必要性を実感した。揺りかごから墓場まで、人が尊厳をもって生きてゆける地域社会づくりをするのだと、正子の心に火がついた。
1975(昭和50)年3月、正子は関西主婦連合会の副会長二人と一緒に、福祉先進国と呼ばれる北欧諸国へ、二週間の研修旅行に向かった。「老人の家族と住まい」というテーマで、スウェーデン、ノルウェー、デンマーク、フィンランドの老人ホーム、病院、一般家庭を精力的に訪れた。訪問先での視察の他、町の様子に、質素ではあるが趣味良く整えられた住環境や、老人への配慮の数々に、日本の福祉国家への道のりは長いと感じた。
揺りかごから墓場まで、誰もが豊かに、部屋に野の花一輪を飾る心のゆとり、他者を思いやる心の明るさをもてる生活。広く人々の生活の向上を目指す福祉国家となるために何ができるか、何をするか。視察に歩いた北欧諸国の福祉国家ぶりに感心した。しかし何もいたずらに、それを真似る必要はない。日本的特色のある老人福祉制度を確立することだと、正子は考えた。
保育事業と消費者運動の実績から、このころ正子は政財界の要人から生活に根づいた意見を求められ、生活者の視点からの提言をするようになっていた。生活に苦しむ人を助けるには大きな社会環境を整えねばならない。福祉は施設の中だけで行うものではない。社会という大きな環境を整えるためには、制度の確立が必要だ。
福祉国家への形態が整えられつつある今、生活者の実像が制度に反映されるように、できることは必ずある。正子はこれまで以上に、積極的に都島で地域の高齢者と話すようになった。数年前のアンケートで調べた意識調査を、顔と顔を合わせての対話の中で、より実態のあるものとして捉えようとした。
自分自身七十の大台にのって、七十代、八十代の人たちに「おじいちゃん」「おばあちゃん」と話しかける正子を見て、渡久地歌子がある日、「比嘉先生はお年寄りの問題を人ごとのようにお話されますねえ」といたずらっぽく言った。「あんたはまた、憎たらしいことを言うね」と何食わぬ顔で返しながら正子は、老人福祉が自分ごとだと思い直した。北欧視察を機に自分の老後についても考えるようになったが、自分がすでにその入口をくぐっていたとは考えてもいなかったのだ。
地域の高齢者たちの話を自分ごとと捉えながら描く老人の生活設計。それは、美しく人生を終えていくための、自主性をもった一人の人間の生活だった。