第35話
児童福祉の拠点、
都島児童センターへ
「君、都島にいって保育園を始めなさい」1931(昭和6)年、社会事業の師である志賀志那人の一声で、公園を園舎に始めた青空保育園。地域に初めてできた保育園は必要に応じて拡充を続け、戦中、戦後、そして高度経済成長期と、地域の必要に応じて変化、前進を続けてきた。そして1972(昭和47)年、都島児童館は都島児童センターとして生まれ変わった。
高度経済成長による生活様式の変化に応じて新しくなった都島児童館だったが、町の姿、人の生活様式の変化は、それからどんどん進んできた。その時々のいちばん良いものを子どもたちにが、正子のモットーだった。
施設の近代化と、児童福祉法に定められた児童厚生施設としてのさらなる充実を図って、都島児童館を新しくすると決めた。大阪市水道局の空地を借りて、保育所と児童館の仮園舎を建てての大工事だった。都島児童センターには、〈保育所〉〈児童館〉〈学童保育室〉に加え、〈身障児療育園〉を新設。さらに子どもたちと地域社会を繋ぐ〈子ども劇場〉というスペースもつくった。総額1億3000万円(当時大卒初任給4万円前後)の大規模工事だった。資金調達に駆けずり回りながらも、正子の胸は踊っていた。
1931(昭和6)年、無一文で始めた青空保育園。園舎も園庭もなく、保育所ができるだろうかと思う正子の背中を押したのは、師、志賀志那人の言葉だった。
「公園の木陰、太陽の下、立派な園舎である。木の葉っぱや石ころ、虫、草花、みんな自然が与えてくださった子どもたちへの恩物(遊具)である。滑り台やブランコだけが遊び道具じゃない。それがなければ保育園ができないと思うな」
青空保育園が都島幼稚園になったとき、正子は 三百坪の土地に二十五坪の園舎を建て、広々とした園庭をつくった。安全な庭で子どもたちが太陽の下、駆け回る、土に触れ、庭の樹々や草花に四季を感じる。子どもたちが青空の下、のびのびと育つ保育の環境づくりだった。
「水、土、木切れ、お日さまがあれば保育はできる」この理念をいかに、コンクリートの建物の中に入れていくのか。施設の近代化に際して、正子がまずいちばんに考えたことだった。
安全性と自由保育。その実現に向けて正子は学識者や専門家に会い、自由保育の発想を取り入れている施設の見学にいった。素晴らしい人や施設があると聞けば各地に足を運び、それらからの学びをもとに、念入りな安全設計で自由保育の発想を取り入れた建物が完成した。
新しくなった施設に子どもたちは大喜び。その姿に正子の心も喜びに満たされた。ところが、実用の中で安全性への懸念点が次々と見えてきた。たとえば、中央階段の吹き抜け。子どもが落ちはしないかという心配が持ち上がった。そこで正子は、階段の柵代わりに四階から一階まで水色のロープを張って、そこに赤い鯉の人形を配して「水のない滝」と呼んだ。
安全性に注意して念には念を入れた設計だったが、実際に使いはじめるとあちらこちらに不備が見つかった。正子はそれを「欠陥の美」と名づけて、水のない滝のように、それを利用して新しいものにつくりかえていった。
「やってみなければ、分からないことがある。失敗を楽しいものに変えていけばいいんだよ」
何事もやってみなければ始まらない。少しずつ少しずつ工夫を重ねながら、失敗を実りに変えていく。やってみたからこそ分かることで、より良いものへと変えていける。青空保育園を始めるとき、恩師志賀志那人から送られた「あなたはゼロから立ち上がって、やってごらんなさい」という言葉。その言葉どおり、「私のは無手勝流だよ」と言いながら正子は、学び、実践し、やってみることで理解を深め、より良い方法を見出し、前進してきた。
保育所、児童館、学童保育室、そして身障児療育園、子ども劇場と、さらに多くの児童施設を包括する新しい建物を、正子は都島児童センターと名づけた。
保育を軸に地域社会をつくる。1949(昭和24)年、都島で待つ人たちの思いに応えて保育事業に復帰すると決めたとき、正子はそう決めた。建物を建てて子どもたちを預かるだけではない。子どもたちを真ん中に、地域社会をつくっていく。近代化と児童厚生施設としてのいっそうの充実を図って建てた都島児童センター。その名前には、地域に開く児童福祉の拠点という意味が込められていた。
都島子ども劇場は、映画やコンサートなどを開催する、いわば子どもたちのための文化施設としてつくられた。都島友の会の保育所や児童館に通う子どもたちだけではなく、地域の子どもたちすべてに開かれた子どものための劇場だった。そして子どもと一緒に大人たちが集まるセンターだった。 都島の子どもたちのお城であり、児童福祉の拠点としての施設、都島児童センター。子どもを真ん中にした地域づくりが一つの形になった子どもの殿堂だった。
都島児童センターに新設した、身障児療育園は、このころ、併行して展開していた乳児保育センターと同様に、児童福祉を切り開く事業だった。