第34話 新たなる「子どもたちの“館”」
子どもたちを真ん中に地域社会をつくる。その理念のもとに歩み続けてきた社会福祉法人都島友の会。その思いを形にと、保育、教育に加え、児童厚生施設として1964(昭和39)年、都島児童館は新しい姿に生まれ変わり、その役割を公的に認められた。
最初の都島児童館が出来上がったのは、1949(昭和24)年11月だった。1945(昭和20)年3月、戦時中の閉鎖令によって閉園した都島幼稚園は、同年6月の大空襲で全焼。前年亡くなった我が子二人に優先しても、必要とする子どもたちがいるならと、戦時保育を続けていた情熱すら虚しくなった。
この1949年に休園中の保育施設の復旧令が出たときにも、正子は動かなかった。そんな彼女を動かしたのは都島の地で正子の復帰を待ち望む母親たち、子どもたちだった。生活にやつれた姿で、疎開先の鴻池新田の村まで説得に通ってくる母親、切実な願いを切々と書き送ってくる手紙。その思いに、我が身を哀れむことはよそうと、復帰を決めた。
都島に戻ると、戦前戦時の卒園生や親たち、そして地域の人たちが大空襲の爪痕が残る土地を整備し、再建の準備を進めていた。その姿に正子の情熱の炎が再び燃え上がった。死者への愛よりも生者への愛と、亡くした二人の子、牧子と健の墓建立にと蓄えてきた金をすべて資金に当てた。物資不足の中、かき集めた建材で園を再建。けして立派とはいえない建物だったが、皆の願いが一つになった「子どもの“館”(やかた)」だった。
正子はその館に「都島児童館」と名づけた。保育、幼児教育、学童と多様な役割を持つ複合施設だった。学童には、都島児童館の保育部、幼稚園の卒園生以外も受け入れた。
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さて、1960(昭和35)年、高度経済成長、所得倍増計画による女性の社会進出に応じて、正子はゼロ歳児保育のための乳児保育所を開設した。さらに喫緊の必要に対応した施設開設と同時に、保母たちの負担を軽減し、より質の高い保育を実現するための近代的な施設建設を考えていた。そして、このとき、正子の頭にはもう一つ、都島児童館の建替え構想があった。
どうこうあろうと子どもたちは平等だ。ここに来れば、家庭の事情に関係なく、すべての子どもに同様の機会が与えられ、経験を通して将来の可能性を開く力や感性を身につける。それが、子どもの館、都島児童館だった。その経験をいかに良いものにするか、そのための環境づくりに、正子は力を惜しまなかった。
戦前の託児所は貧しい家の子を預かる施設という概念が一般的であったころから、正子は自分が経営する施設は、みすぼらしくあってはいけないと考えていた。可能なかぎり、その時々のいちばん良いものを子どもたちのために用意する。そのために、いつも金策に走り回っていたといっても過言ではない。
高度経済成長、所得倍増計画で人々の生活様式が変化した。団地の建設が進み、ダイニングキッチンが登場、食卓はちゃぶ台からテーブルと椅子に変わり、物が揃った生活になった。都島児童館も変容しなければならないと正子は考えた。戦後の復興期の建物から、近代的な建物へと、建て直しを決めた。そして1964(昭和39)年、正子は都島児童館という名称で、児童厚生施設としての認可を得た。都島児童館は、保育園に加えて児童厚生施設を併設すると公的に認められたのだった。
1949(昭和24)年から十五年間、地域にあって子どもたちのために施設を開放。 遊戯やサークル活動を通じて、また低額利用料によるクラブ活動によって、子どもたちの健全な育成を目指し続けてきた活動。さらに高度経済成長期になってから高まってきた鍵っ子対策への取り組み。学童という概念が一般的でなかったころから重ねてきた実績を、将来に向けてさらに充実したものにする。そして地域活動を推進していく。その実績と展望によって得た認可だった。
1962(昭和37)年に増築した木造モルタル二階建ての都島児童館の、二階部分の約半分の面積を児童厚生施設にあてた。遊戯室、集会室、図書室に、学童用の便所と事務室もつくった。学童保育、学習クラブ、珠算クラブ、絵画クラブ、習字クラブ、バレー(ボール)クラブ、オルガンクラブ、図書クラブ、子ども会といろいろな活動を計画。その内容によって幼児から中学生と利用者を幅広く受け入れ、延べにして四百名近くを予定した。
知識、技能、思考力、体力の向上、情操教育と、カリキュラムには知・体・徳を育てるという正子の理念が生きていた。1964(昭和39)年4月、保育施設と児童厚生施設が一つになった都島児童館がスタートした。保育と同様、児童厚生施設の利用希望者も、年々、増えていった。地域の人も講師に招いてのクラブ活動も、日舞、沖縄舞踊、ピアノ、英会話など、広がっていった。
将来、進路を考える年齢になったとき、幼少期の経験が役に立つ。自分はどんなことが好きなのか、得意なのか。適性や、したいことを見出すのに、都島児童館での経験が役に立つ。豊富な経験は、子ども自身の中に、将来への想像力を育て、選択肢を増やす。
自分の将来に夢や希望を抱き、自分自身で進路を決め、歩んでいく。ときには道を変える選択肢も持って、人生を開いていく。知・体・徳を養った子どもたちが、自主性をもって道を開いていく。「三つ子の魂百まで」という言葉どおり、人生の基盤を育てる時期を預かる保育と幼児教育。さらに自我が発達する時期の学童保育と教育。
ここには、子どもたち皆に開かれた機会がある。「家庭がどうこうあろうと子どもたちは平等だ」という、正子の信条が形になった都島児童館。この子どもたちの館は、1972 (昭和47)年、さらに進化して生まれ変わる。