第2弾 比嘉正子物語 蒼天に咲くひまわりの愛 全30回

31 ゼロ歳児保育の草分け

1960(昭和35)年のある日、園児の母親の一人が「先生、お願いがあるんです」とやってきた。

「もうすぐ二人目の子どもが生まれます。けどその子を預ける所がありません。赤ん坊のために退職すると家計が苦しくなります。先生、助けてください。乳児も保育できるようにしてください」

昭和30年代(1955〜)、高度経済成長による労働力需要の増加で女性の社会進出が一気に進んでいた。子育てをしながら働く女性も増え、この母親の願いは多くの女性に共通するものだった。

 1947(昭和22)年の児童福祉法制定以来、児童福祉の法制化が進み私立保育所の設立は増えていた。が、乳児保育の展開はまだまだだった。高度経済成長期に入って保育運動が起こり、乳児保育への要求も高まった。大阪市は独自に積極的な施策を行い、乳児保育専用設備づくりも奨励した。しかし本格的な乳児保育はなかなか進まなかった。

切羽詰まった様子で、出産間近の二人目の子どもの乳児保育を頼みにきた母親。彼女の願いは多くの女性の願いだった。正子はすぐさま、ゼロ歳も受け入れる乳児保育所開設に動いた。

乳幼児に安全な環境を、いかに迅速に整えるか。正子は1957(昭和32)年の労働争議以来、閉鎖している都島病院の看護婦宿舎の一階を転用すると決めた。都島文化センター内では、この年から都島診療所として医療機能を一部復活している。乳児の保育にも安全だった。

最初から乳児保育所として設計していない建物での保育。設備はけして充分ではなかった。大人用の便器に木製の足場板を嵌め込んで、子ども用に変えるなどの工夫をして準備を急いだ。状況は何より迅速さを要していた。乳児保育所ができたと聞き伝えに知った希望者が次から次へと現れて、あっという間に三十五名に達した。

これまでも事情に応じて低年齢の子どもを預かる事もあったが、ゼロ歳児から預かる乳児保育園の運営は、正子にとっても新たな試みだった。正子は子育て経験のあるベテラン保母四名を起用した。設備の不充分は保母たちの愛情と献身的な奉仕で補われた。

毎朝、子どもたちと一緒にオムツの包みを預かるのだが、雨の日には生乾きのまま包んであることも多かった。干し直すのはひと手間だった。しかし誰も文句を言わなかった。仕事から戻って洗って夜乾かし、朝、急いで包んでくる親たちの姿を想像して、働きながら子どもを育てる大変さを思うばかりだった。

朝、子どもたちを連れてくる母親たちは、近所の知人にでも預けるような気楽な感じだった。楽しそうに子どもに話しかけながらやってきて、オムツの包みと一緒に子どもを預けると、急ぎ足で仕事へ向かった。

お迎えの時間には園庭の花を摘んでバケツに入れて、自由に持ち帰れるように玄関に置いた。一輪二輪の花を嬉しそうに持ち帰る姿に保母たちの気もちも和んだ。花一輪に明るくなる家庭での時間。預かるだけではなく、子どもたちの生活の豊かさに思いをいたす保母たちの愛情。その献身が正子にはありがたかった。しかし行き過ぎた献身には歯止めをかけた。

帰りの時間は保母たちが子どもたちの靴探しで一苦労するのが常だった。母親たちはてんてこ舞いする保母たちを、ボーッと見ている。その様子を見ていた正子は、子どもたちが帰った後、口を開いた。

「靴くらい、親に探してもらいなさい。お客さんと召使いではありませんよ。子育てを支える保母と親は協力し合うパートナーです」

子育てのパートナーとして、親とのコミュニケーションを正子は大切にした。その一つに、虚弱な子どもの親との連絡ノートがあった。食事のこと、便のこと、いつもより大きな声ではしゃいでいたこと…何でもいい。少しのことを伝え合い、一緒に子どもを見守った。

1950(昭和25)年、子どもたちの生命を守るためと、都島診療所を開設した正子。その子どもたちへの思いは、ベテラン保母たちも同じだった。

看護婦宿舎を転用した施設は床が低かった。一、二歳児にはよかったが、玄関からの砂が床に上がるのが難だった。掃いても掃いてもすぐに砂が上がってくる。少しの砂にもすぐ気づくように、保母たちは裸足で保育するようになった。保母たちのこの気づかいを知り、診察に来てくれる診療所の医師も裸足になった。

子どもたちの診察に医師の方から足を運んでくれるのは、ありがたかった。ゼロ歳児からの乳児保育所を、閉鎖中の看護婦宿舎に開いたのは、再開した都島診療所と隣接しているからでもあった。発熱、感染症、事故など子どもの異変にすぐに対応できること、また病後の子どもを預かるときの用心だった。

子どもたちの給食作りとなると、保母たちは小さな子どもをおんぶ紐で背負って厨房に立った。開設当初は150メートルほど離れた都島児童館から毎日運んでいたのだが、保健所から指導を受けて乳児保育所内で作るようになった。負担が増えても保母たちは、嫌な顔一つせず引き受けてくれた。

そんな保母たちの姿に正子は、新たに乳児保育所を建設しなければと思った。このままでは彼女たちが過労で倒れてしまう。保母たちの安全は、また、子どもたちの安全でもあった。近代設備を備えた乳児保育所の建設は、正子の緊急課題となった。

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