第2弾 比嘉正子物語 蒼天に咲くひまわりの愛 全30回

30 社会事業家としての矜持

1957(昭和32)年8月15日の組合結成から半月後の9月1日、都島病院は閉鎖した。従業員たちについては、大阪府労政課の教示を受けて労基法に違反せぬよう手続きを進め、伝手を頼って受け入れ先の病院をあたった。幸いどこも人手を求めていて、転職先の心配はなかったが、入院患者を一日も早く安全に転院させることが急務だった。

ところが総評側が、「比嘉は君たちを見捨てたのだ!彼女を恨め!彼女の甘言に耳を貸すな!」と患者たちを煽動しはじめた。医療行為ができない病院になぜ入院患者を留めようとするのか。彼らはいったい何がしたいのか。その行為に対抗しながら、正子は10月末日までに入院患者全八十八名を大阪市内の各病院へ転院させた。

こうした最中、大阪地方労働委員会から組合員の救済命令書が届いていた。その内容は、病院閉鎖は組合員を閉め出すためのロックアウトだと判断を下した内容だった。お互いの言い分を聞いたうえで妥結点を見つけるという姿勢は感じられない、一方的なものだった。なんとも言いようのない敗北感が突き上げてきた。

関西主婦連合会の役員たちが、それはあまりだと地方労働委員会の委員長に会見を申し入れにいった。しかし「地労委の目的はあくまでも労働者の保護と権利の尊重をはかること。経営側に有利な命令は出せない」と、取り合ってもらえなかった。

「そうやとしても、『組合員を現職同等の地位に復職させよ。それまで同一賃金を払え』という救済指令には合点がいきません。組合員に名を連ねているのは、患者のことより自分の得を優先した人らです。その人らと、誠実に職務を果たしてきた者を同等に扱えというのは理不尽です。労働者にかて、いろんな人がおるんやないですか」そう食い下がったが聞き入れられなかった。

正子と主婦連のおかみさんたちは、行政訴訟に訴えてでも、自分たちの立場、今までの報道では伝えられてこなかった顛末を、天下に表明すべきだと決めた。

しかし正子たちに先んじて、組合員たちが身分保全の仮処分を大阪地裁に申請していたので、双方が裁判所に訴える形になった。結果11月16日、3条件のもと、和解が成立した。

1 . 遅くとも昭和33(1958)年4月1日から病院再開に努力すること。
1 . その間、組合員に60%の給与を支払う。
1 . 客観状勢が再開不能の場合は従業員の解雇および退職金について協議する。

病院再開はもとより正子の望むことだった。しかし奔走した資金繰りと医師探しが、すべて徒労に終わっての閉鎖だった。給与については、早晩、実行不可能に陥るのが目に見えていた。福祉事業としての病院で利益の内部留保などなかった。銀行の融資が止まってからは、賃金も経費も目ぼしいものを次々と換金して支払う始末だった。

すでに客観状勢は再開不能だった。正子は、直ちに団交を開いて退職問題を話し合うことを提案した。

ところが総評側は時期尚早と反対。次いで「再開不能ならば、どうせ売りに出すのだろう。条件が折り合えば総評側で資金を出してもよい」と持ちかけてきた。そして「資金をある程度出すのだから、役員の二人や三人、経営に参加させるのは社会常識だろう」と再三、迫ってくる。その執拗さに、労働組合結成の真意が見えたと、正子は今までのことに合点がいき、闘志に火がついた。

「社会福祉事業の役員になるには、出資の高より大切な条件があります。福祉の理念に徹した人であるかどうかということです。これまでのあなた方を見て、いくら金を積まれてもまっぴらごめんですよ。もし余分な金があって出すというのなら、正当な貸借関係のうえで借金をします。どうでしょうね、一度考えてみてくださいな」

総評側はあくまでも出資を主張した。

和解調停には、経営に関して話し合えとはなかった。病院の再開が不能なら、建物を転用した社会事業を行えばいい。正子は閉鎖後の病院を関西主婦連合会に貸与して、「都島文化センター」として活用していくことに決めた。

1958(昭和33)年3月31日の早朝、電話のベルで目が覚めた。嫌な予感がした。一息置いて、受話器を取った。

「え、え、えらいことです。男の人らが押し入ってきました」

正子が「もしもし」と言い終わる前に、都島文化センターに住み込んでいる沖田が喋りだした。

「表からものすごい足音が…えてきたんで…覗いたら、ものすごい人数の……ずらっと……三十人ほどが土足……」

廊下に響いているのだろう労働歌の斉唱に、沖田の上ずった声が掻き消される。

どうやら新装オープンした都島文化センターは総評からの部隊に占拠されているらしい。 正子は急いで向かった。事態を知った関西主婦連の面々もかけつけてきた。

建物の周りは二百人近くいるのではないかと思う大部隊に取り囲まれている。正門はスクラムで覆われていた。

「あなたたちは何をしているんですかね」正子はつかつかと近づき問うた。

「病院は組合員の住居である」「自分たちの資金を受けいれ、経営に関わらせろ」スクラムを組む男たちが口々に叫んだ。

「ご存知のように都島病院はとっくに閉鎖しましたよ」

「そうです、ここはもう都島文化センターとして、わてら関西主婦連が、地域や女性たちのために使てますのや」

互いに一歩も譲らず睨み合う正門前に一人の主婦がやってきた。都島文化センター内に設置した内職斡旋所に、内職の仕上がり品を届け、次の作業分を取りにきたのだった。明日の生活費を稼がねばならないというその主婦を彼らは通さなかった。その有様に、どこが労働者の味方なのかと、正子はいよいよ闘志をたぎらせた。数人のおかみさんたちが固まってスクラムに突撃したが、たちまち取り囲まれ、押し返された。

都島文化センター占拠は、この後百八日間続いた。その間、正子や関西主婦連合会の役員たちの自宅の戸や塀に、誹謗中傷のビラが張り巡らされた。

総評とはかつて、敗戦直後の食糧危機打開、物価安定のために共に闘っていた時期もあった。生活を守り、子どもたちの生命を守るという大きな目標のもとの、大同団結だった。日頃の活動や主義の違いを超えて、大きな目標のために力を合わせる大同団結は、正子のモットーだった。大同団結の輪は資本家も含んだ。総評の彼らは、資本家との協働は受け入れがたいと去っていった。

残念だったが、それぞれの意思による大同団結だった。各々、自分の場所で活躍すればいいと正子は考えていた。が、彼らは違った。資本家と手を組む正子への反発は、正子の活躍が耳目を集めるにつれて敵視へとなっていったようだった。

都島文化センターの占拠から十日後、4月9日。関西主婦連合会主催の「第2回消費者大会」が攻撃の的になった。この後も、正子の関わるあらゆるところが彼らの標的となった。関西主婦連主催の主婦の商品学校の展示会場となったデパートや、関係業者も吊るし上げられた。正子や主婦連役員たちの自宅には、電話や電報の攻撃が続いた。

神経がすり減るような日々だったが、折れてはならぬの一心で堪えた。敗北は、地域福祉に貢献してきた都島病院の閉鎖だけで充分だった。

1958(昭和33)年7月17日。都島文化センター占拠から百八日。大阪地方裁判所から、「組合が旧都島病院の建物を占有していることは違法である」との判決が出た。取り戻した都島文化センターに入ると、あちこちに赤い旗が立ち、壁、窓、柱、天井とアジビラで埋め尽くされていた。正子は皆と一緒に一枚一枚剥がしながら、取り戻したこのセンターで何ができるか、思いを巡らせた。

労働争議自体はこのときからまだ二年余り続いた。度々、新聞にも取りあげられたこの騒動について、文芸春秋に手記を掲載しないかという話がきた。双方に言い分はある。今まで、耳を貸してもらえなかった自分たちの言い分、信じるところを広く訴える機会だと、正子は筆を執った。

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