第2弾 比嘉正子物語 蒼天に咲くひまわりの愛 全30回

3 夢見ることをあきらめない

父宗重の考えもあり、正子は将来、女学校に進学することになった。学問を続けられることは嬉しかったが、手放しで喜ぶことはできなかった。家に自分を女学校にやるだけの余裕がないことは一目瞭然だった。しかし宗重は「子どもがそんな心配をしなくていい、女学校に行きなさい」と言った。事情を理解している担任の先生も進学を諦めるべきではないと、官費の女子師範学校に進んではどうかと奨めてくれた。父と教師の後押しに正子は女学校へ進むと決め、尋常小学校に併置の高等小学校に進学した。

学校は好きだった。しかし師範学校への進学には相変わらず迷いがあった。高等小学校に通いはじめたころは、師範学校へ行くのだと心が弾んだ。けれど、しばらくすると、ほんとうにいいのだろうかと考えるようになった。師範学校は女学校よりも修学期間が一年長かった。正子は一年でも早く学業を終えて家計を助けたかった。そして正子は、首里市立女子工芸学校(入学時の名称は首里区女子実業補修学校、在学中に名称変更)に進むと決めた。

首里市立女子工芸学校は、1987(明治30)年、沖縄県で最初の女子実業学校として誕生した。沖縄県下で最も有名な実業学校として、県下の各地から生徒が集まった。正子が入学したのは、1919(大正8)年。教科は、修身・国語・算術・理科・図画に機織・染色・裁縫・養蚕・手芸・洗濯。教養と技術、知識と実技を合わせて学ぶ教育内容は正子に合っていた。

十四歳になっていた正子は父親が庭の畑で育てた野菜を首里市場で売り、自分で女学校の学費の足しと小遣いを工面した。苦学生ではあったが学生生活を謳歌してもいた。入学して間もなく、気の合う友だちの五人グループができた。放課後、映画を観にいったり、首里にある今川焼屋で時間の経つのも忘れておしゃべりをした。

 十四、五歳の女の子たちの話題は、たいてい憧れの男の子のことになっていった。彼女たちが憧れたのは中学校の男子生徒で、文学少年や音楽少年、野球少年だった。正子が憧れていたのは県立第一中学校のピッチャーだった。五人グループの誰もが野球好きだったので、首里近辺で試合があれば皆で応援にいった。正子が指揮をとって横断幕やポンポンをつくっての小さな応援団だった。そして正子は憧れのピッチャーにファンレターを送ったこともあった。

学生生活を自由に謳歌する正子たちだったが、グループには成績の良い生徒が揃っていたおかげで学校から睨まれることはなかった。ただ一度だけ正子は校長先生直々に叱られたことがあった。そのころ正子はトルストイに熱中していて、裁縫の時間になると教室を抜け出しては読書に耽っていた。その日も裁縫の授業をさぼって、首里城の物見台でトルストイの「復活」を読んでいたところ、校長先生に見つかってしまった。正子の成績表に一つだけ、「丙」の文字があったのは裁縫だった。

そしてもう一つ、女学校に通うようになった正子に自由な世界が広がった。女学校に入学して間もなく、校舎のある首里城から歩いて2、30分の那覇バプテスト教会に通うようになった。教会では男女が人目を気にすることもなく、自由に交流できた。誰もが平らかにつきあうことができる教会の中は、自由な空気に満ちていた。男尊女卑や古い因習の名残である身分意識もないそこは、正子にとって別天地のようだった。正子はキリスト教によって世界が救えると夢見た。伝道師の路傍説教についていったり、バイブルクラスで賛美歌を歌ったりして精神的な充実を覚えた。

牧師や信仰心の深い信者たちとの触れ合いの中で、正子の内に倫理観が育っていった。年頃の娘ばかりで映画館や飲食店に出入りし、男子生徒にファンレターを送る、授業をさぼって教室を抜け出すなど、当時の沖縄では眉をひそめられるような自由奔放な行動をとりながらも、常に正子の精神の根には教会で教えられる倫理観があった。十四、五歳の自我が育っていく時期に吸収したキリスト教的倫理観と、幼いころから尊んできた父宗重のヒューマニズム。この二つが、正子の人としての在り方の礎となった。

本科の三年間を終え卒業する日が近づいてきた。許される限り思いのままに過ごしてきた学生生活の中で正子は多くを夢見た。これからどんな道を歩んでいくか、夢と現実の間で進路を決めるときがきた。教会という別天地で知った自由は、正子の内に、家のしきたりや学校の規則、小さな町の因習にとらわれない考えを培っていた。そしてもっと広い世界に飛びだしていきたいという思いを育てていた。

正子は女学校を卒業したら家を出たいと思うようになった。卒業後の将来が近づいてくるに従い、その思いは強くなっていった。家に残れば自分がしぼんでいくように思われた。進む道を考えることはいつしか、家からの脱出を考えることになっていった。自分を閉じ込め、しぼませていく世界から脱出するには、どうしても内地へ渡らなければならないと思った。

外国への移民が多かった当時の沖縄で、正子の従姉妹たちもハワイに移り住んでいた。従姉妹たちがいるハワイでの生活を考えないこともなかったが、望む職業につくほどの英語力が自分にあるとは思えなかった。家を出て向かう先は内地だと決めた。日本大学の社会科に進学したい、そして卒業後は社会をつくるような仕事に就きたいと思い描いた将来の実現は断念した。が、家を出て、外の世界に飛びだす夢は諦めなかった。

次に正子が考えた計画は、まず宮古で働き、そこから台湾に渡って、台湾から内地に向かうというものだった。折よく親戚の家に宮古の人が下宿していて、その人の紹介で宮古郡の西辺尋常高等小学校に代用教員の職が見つかった。正子は外の世界への扉を押し開いた。

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