第2弾 比嘉正子物語 蒼天に咲くひまわりの愛 全30回

29 都島病院の危機

1957(昭和32)年8月15日の夜、電話のベルが静寂を破った。10時半を過ぎていた。「大阪総評の尾津という者です。たった今、都島病院に組合が結成されました。よろしく」それだけ言うと電話はガチャンと切られた。正子が何かを言う間もなかった。

終戦記念日とお盆が重なる8月15日の夜は、正子にとって特別な時間。亡くなった我が子、牧子と健の霊と静かに向き合う時間だった。死者よりも生者のためにと、都島友の会の理事長、関西主婦連合会の会長としての活動に没頭する毎日。その中で一年にたった数時間、我が子のことだけを思い、内省する貴重な時間だった。

先の大戦の戦渦の中、地域の母親たちに応えてぎりぎりまで戦時保育を続けた。入院で闘病を続ける我が子二人の世話よりも、園長としての責務を選んだ。預かった子どもたちの生命を守るために死力を尽くした日々に後悔はない。だが、我が子二人に、母親として自分のすべてを捧げてやれなかったことへの罪の意識が薄れることはなかった。大空襲で園が焼失し、戦争にも敗れ、虚無感に打ちのめされた。これからは、亡くした我が子への贖罪に生きると決めた。

そんな正子を社会事業、保育の道に引き戻したのは地域の母親や子どもたちだった。生き延びた生命を守るために闘う人たちのために生きよう。そう決めて復帰した社会事業の道。保育を軸に地域社会づくりに献身すると決めた。弱き者を守るには、より大きな社会環境を整えねばならないと、おかみさんたちと始めた婦人運動との二本柱で奔走する日々。その中で年に一夜、ただただ、ひとりの母親として過ごす時間が、不穏な電話で破られた。

園児たちの安全な保育のために開設した都島病院は、医療機関の乏しい近隣地域の住民、さらに低所得者の診療も行ってきた。1950(昭和25)年、社会事業法による医療保護の認可を受け、都島診療所として開設。1952(昭和27)年、都島友の会が財団法人から社会福祉法人に改組した後、都島病院に昇格。増築し、病床を増やし、診療対象を地域の生活保護者、健康保険適用者、労災適用者、自費患者と広げ、地域医療の担い手としての性格を明確にした。

翌朝、病院に駆けつけると、昨夜の電話で尾津と名乗った男が、門前に仁王立ちで待っていた。尾津が事務長に預けていった労組結成書と団交要求書に目を通し、正子は首を捻った。養成看護婦の処遇が劣悪で人権蹂躙とある。だが、都島病院の労働条件、賃金、福利厚生は、国立病院のそれを上回っている。他の従業員の処遇についても、業界の平均以上。不当労働、人権蹂躙と責められる筋合いはない。いったい何を根拠にこの要求を導きだしたのか。

文書のどこにも、昨夜結成したという労組の組合長の名がなかったので、事務局長を通じて門前に仁王立ちしている尾津に、「こういう問題は私の一存ではいかない。理事会にかけて回答するので一週間待ってほしい」と申し入れた。すると、「団交を拒否するつもりだな。それなら地方労働委員会に提訴する。これが発表されたら、比嘉正子の名声や地位などいっぺんに吹き飛んでしまうぞ。それから泣いたって知らねえからな」冷笑まじりに叫んで立ち去ったという。

そして、その日の夕刊に、「人権蹂躙、関西主婦連合会長の比嘉正子訴えられる」の大見出しで報じられた。組合結成から提訴、新聞報道までわずか14時間ほどだった。すべて予定されていたのだと正子は悟った。どうやら都島病院以外にも、社会福祉事業関係の二つの病院が同様の争議を起こされていたらしい。

それにしても、こうなったのにはそれなりの原因があるのだろうと調べると、婦長が労組結成の糸口になっていた。彼女は病院長と事務局長に信任されて多くの権限を持っていたのだが、患者の投書で、治療費をごまかしていることが発覚し、退職を要求されていた。その婦長に知恵をつけて、解雇の日の一週間前に組合を結成させたらしい。

婦長は、最初に書類の内容を偽り、院長に組合結成の趣意書に押印させた。そして院長の名を出し、副院長、医長、主任らに押印させて、一般職員たちを勧誘した。あっという間に職員三十八人中二十七人が加入、組合が成立した。組合長には、半月前に都島病院に入ったばかりの看護婦がなった。彼女は総評の一員だった。

その見事な手際を知った正子は思わず感心した。が、結成翌日には実情を知って脱退者が続出。結局、残った組合員は七人だった。入院患者の食事の上前をはねる、病院の備品をくすねるなど要注意人物ばかりだった。

そのメンバーを見て正子は少し安堵した。多かれ少なかれ、皆、不満もあるだろう。しかし組合員以外は福祉医療の仕事に自負をもって取り組んでくれているのだと心強かった。この事態を、何とか乗り切ろうと気力が湧き上がってきた。

一方、脱退者の続出に怒り心頭の相手方も対抗心を燃やした。脱退者たちを「裏切り者」と罵り、「比嘉の卑劣極まる分裂工作に、徹底的に立ち向かう」といきまいた。

争議が始まって四日目の8月19日。関西主婦連合会の恒例総会があった。会員たちは、自分たちのリーダーが訴えられて、世間で騒がれていることに業を煮やしていた。正子の説明を聞いて、その理不尽さに憤激したが、和解すべしとの方針に決まった。

都島病院の労働争議ではあったが、関西主婦連合会長比嘉正子として報道され、世間に騒がれている以上、関西主婦連としても放っておけなかった。副会長ら四人の幹部が正子に代わり、総評幹部との話し合いに出かけた。が、正子への誹謗中傷を聞かされるばかりで帰ってきた。

相手に和解の意思がないのが分かって、正子は闘う決意を新たにした。子どもたちだけでなく、地域の人たちからも頼りにされている都島病院を潰してなるものかと、闘争心を奮い起こした。

しかし総評側の情報をもとにした新聞報道が連日続いた。叩かれて折れる正子ではなかったが、経営へのダメージは大きかった。報道を頭から信用した取引銀行から、融資を止められた。薬屋からも、売掛金の回収に不安があると取引を中止された。営利を度外視した赤字続きの社会福祉病院が、銀行と薬屋からシャットアウトされてはお手上げだった。実情を訴えて回ったが結果は虚しかった。

大阪地方労働委員会の仲立ちで総評側との団交も何度か行われたが、円満な話し合いは不可能だった。

打開策はどこにあるかと考えている中、病院長から辞意を伝えられた。「病院に総評が入り込んだら、たとえ一時的に話し合いがついても、絶えず総評対策に頭を悩ますことになるのは見えている。私はもうこれ以上、堪えていく自信がない」と銀行、薬屋にそっぽを向かれ、医療の責任者である病院長が自信を失った。どれほど正子が踏ん張っても、どうにもならない事態に至った。

組合結成から約二週間後、理事会を開き、ついに病院閉鎖を決定した。この決断が一大争議のはじまりになるとは、このときの正子には知る由もなかった。

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