第28話 高度経済成長を支える
地域で生活し、地域の一員として日常の暮らしを送る。その中で汲み取っていく子どもたちの家庭が必要としている支援。都島児童館に子どもを送り迎えするお母さんたちが洩らす言葉から、この先に必要となる支援を見出していく。誰かが困り果てる前に、そのときのための手を打っておく。「次はどうする、次はどうする」と言いながら一歩、二歩先の支援を考える。そうして、都島児童館はゼロ歳児から学童まで、それぞれの子に応じた支援を多岐に充実させていった。
1957(昭和32)年2月、岸信介内閣が成立。産業経済の興隆を期して、「新長期経済計画」を策定。前年刊行の経済白書に「もはや戦後ではない」と記された日本の経済は、高度成長期へのスタートを切った。高度経済成長の担い手として女性の社会進出が進むのに合わせて、正子は長時間保育を始めた。
親が安心して子どもを託せる場であること。それは、どんなときも都島児童館が子育てを助けてくれるという、親たちの期待に応えることだった。
1943(昭和18)年、戦況が悪化する中、入院し加療を続ける我が子二人を医師に託し、自身は戦時保育で預かる園児たちを守ることに徹する決心をした。戦争未亡人になった母親や、夫を戦地に取られ留守を守る母親。「比嘉先生に任せれば大丈夫」彼女たちにとって正子の都島幼稚園は、生活を守り、子どもを育てるための頼みの綱だった。親が安心して子どもを託せる場であること。それは正子にとって、いつの時代においても不変の事実だった。戦前、戦中、戦後復興期、そしてこれから迎える高度経済成長期においても。社会の様相に応じて、必要なことを見出し、時々の自分にできる最善を尽くす。正子の心にあるのは、ただそれだけだった。
高度経済成長の担い手となって働く母親たち。彼女らが心置きなく職業に就くためには、お迎えの時間の心配を軽減しなければならない。正子は長時間保育を開始した。
「保育と預かりは違う」これは比嘉正子と寝食を共にした最後の直弟子、三代目理事長渡渡久地歌子の言葉だ。ゼロ歳児から五歳児まで、三つ子の魂百までと言われる時期を、ともすれば親との時間よりも長く過ごすことになる保育園。長時間保育においても、子どもたちが伸びやかに育っていける環境を整えるのは、当然のことだった。保母たちは正子の思いを受けて、長時間保育のための勤務に就いてくれた。が、それでもお迎えの時間に間に合わない親もいた。正子は最後の手段として、都島児童館に隣接する自宅に園児を連れ帰った。
親が迎えにくるまで、寂しさや心細さを感じずに過ごすのが、子どもにとっていちばんいいこと。決まり事の前に、子どもにとっていちばんいいことをする。正子にとって、ごく自然でシンプルな選択だった。正子だけでは手が回らないときには、保母たちも自分の家に連れ帰ってくれた。長時間保育で仕事の負担が増えたうえ、勤務後まで子どもたちを見てくれる保母たち。彼女たちは正子にとって、保育を軸に地域社会をつくっていく同志だった。
そんな正子たちのもとに、ある日、思いがけない贈り物が届いた。長時間保育で勤務時間が長引く保母たちに憩いのひとときをと、テレビがプレゼントされた。贈り主はダイエーの中内㓛だった。実践によって日本の消費者運動の道を切り開いてきた比嘉正子は、このころすでに政財界で知名だった。台所に根づいた生活者の視点からの正子の提言を求める為政者や経営者も多く、中内㓛もその一人だった。
正子が長時間保育を開始したこの1957(昭和32)年9月、中内㓛は『主婦の店ダイエー』1号店を、都島区千林に開いた。この「主婦の店」という名前は比嘉正子から譲り受けたものだった。
「子どもは国の宝だよ」と折りに触れて正子は言った。未来のために、その宝を社会の皆で守り育てていかねばならない。保育を軸にした地域社会づくり、社会事業は、そのための大きな柱だった。そして正子には、社会づくりのためのもう一本の柱があった。それは消費者運動だった。
1945(昭和20)年、敗戦直後の大阪で、正子は子どもたちを餓えから守るため、GHQに「お米をください」と直談判に乗り込んだ。それをきっかけに、高騰する闇値切り崩しのために、おかみさんたちによる「主婦の会」を組織し、生活を守る闘いを繰り広げた。理論は実践のためにあるという持論を体現した、生活者による生活を守る闘いだった。庶民を飢餓から守るための食糧難打開の闘いは消費者運動へと発展。実践によって現実を変えていった正子は、日本の消費者運動の生みの親と称されるようになった。
1949(昭和24)年、正子は広域の女性たちが繋がる関西主婦連合会の組織結成に助力。翌年には全役員からの要望を受けて会長に就任した。リーダーとなった正子は、現実を踏まえ将来を志向するという考えで、衣食住、政治経済、教育の三分野を活動の骨子に運動を展開。政財界の要人たちに台所に根づいた視点からの提言を行い、実践によって彼らを得心させていった。
そんな正子に生活者の実感、台所からの視点に基づく提言を、政財界の数々の要人たちも求めた。正子は生活者の実態を、政治経済という大きな社会環境づくりに反映される機会だと、協力を惜しまなかった。中内㓛も正子に提言を求める一人だった。夫婦で営む商いを、大きな店舗を構えた事業にするにあたって中内は、それまでも相談相手としていた正子に助言を求めた。
1945(昭和20)年終戦直後、疎開先の鴻池新田のおかみさんたちと食糧難打開のために立ち上げた主婦の会で、正子は「主婦の店」をつくっていた。皆で仕入れの金を出し合って、出物があると聞けば買い出しに走り、利益なしで売り分ける店だった。
「『主婦の店』の名前をお使いなさいな」中内から話を聞いた正子は言った。
「そして、他所よりも1円でも安い品を用意しておくこと。安かろう悪かろうではだめですよ。しっかりした品を他所より安く売っていれば、それを目当てに主婦たちが来てくれるから」
玄人の商売人たちと並んでおかみさんたちの主婦の店を続けてきた中で、商売の難しさを思い知らされてきた正子だった。その中で肌で知った、主婦たちの感覚と行動。主婦の味方の主婦の店なら、きっとお客さんが来てくれるだろうと。中内㓛という人物を信じ、自分たちが続けてきた主婦の店の名前をキャッチフレーズに使うよう助言したのだった。中内はこの年の9月に大阪市の千林にダイエー1号店「主婦の店 大栄薬局店」を開いた。
事業を立ち上げ軌道に乗せていく最中、中内は正子が始めた長時間保育の応援に、テレビを贈ってきたのだった。保母たちは喜んだ。テレビの前にじっと座っていられるような時間がなくても、息抜きが用意されているというだけで気もちが和んだ。何より、自分たちの大変さを理解し、思いやってくれる存在があるという事実が皆を元気づけた。
保育を軸にした社会事業と主婦たちによる消費者運動。それは正子にとって、同じ根から育つ二本の幹だった。国の未来を託す子どもたちを守る。次世代、さらに次の世代の子どもたちへと渡していく社会を明るいものにする。正子にとって、それは広く生活者を守っていくことに繋がっていた。
子どもも大人も年寄りも、すべての人が生活者である。その中で、より弱い者、弱い立場にある者と共に立つ。それが社会事業家、婦人運動家、比嘉正子の在り方だった。そして正子にとって子どもという存在は、守るべき一つだった。弱き者でもあり、社会の将来の明るい希望でもあった。
もはや戦後ではない。復興から成長へ。高度経済成長を遂げていく。その社会のビジョンは、誰もが花一輪を飾るような楽しみのある、明るい暮らしをおくる社会に向かっているように思えた。
「世の中から貧困と不平等を無くさないかぎり人類は救われない」二十歳過ぎに感化を受けたこの言葉を正子は忘れることがなかった。誰もが生活への不安に苛まれることなく暮らせる社会。これから自分たちはそういう社会へと向かっていくのだ。そのために、そういう社会づくりを、この都島児童館は、園児の親たちと、地域の人たちと共に実現していくのだ。そういう自負が正子の胸の底にはあった。そして、長時間保育の合間のほんの僅かなひととき、テレビの前でひと息つく保母たちの姿を前に正子は、次はどうすると、この先の一手を考えていた。