第2弾 比嘉正子物語 蒼天に咲くひまわりの愛 全30回

24 子どもたちの館

再び保育を軸とした社会事業に専念すると都島に戻った正子は、我が子の墓の建立に貯めたお金と、甥である姉の子からの融資をもとに園の再建に取りかかった。1949(昭和24)年11月、建物の完成と同時に、この日を待っていた子どもたちがやってきた。この子たちを共に育てていく地域づくりの始まりだと、正子の胸は高鳴った。

事業の再開に際して正子は、

1. 児童福祉法による保育所
2. 児童福祉法による児童厚生施設
3. 社会事業法による医療保護
4. その目的達成上必要と認めたる付帯事業など

これを事業内容として「財団法人都島友の会」を設立。翌1950(昭和25)年3月10日、大阪府第1号の財団法人として、府知事から認可を受けた。また、組織の法人化にあわせて保育施設の名を都島幼稚園から「都島児童館」に改称。保育所としての認可申請を行い、財団法人への認可に先んじて、1950(昭和25)年1月17日『都島保育所』として認可を受けた。「都島友の会」と「都島児童館」。この二つの名称には、比嘉正子の理念が宿っている。

1931(昭和6)年に「北都学園」として出発したときから、正子が描いていたのは保育を軸に地域の人たちと共に、地域社会をつくっていくことだった。その一翼を担うのが「母の会」だった。北都学園に子どもを預けている、いないに関わらず、子どもたちを守り育てることに心を寄せる人たちを募った「母の会」。それはまさしく、地域全体で子どもを育てていこうとする連合だった。「都島友の会」という名にはその思いがこもっている。保育を軸に地域の明日を、力を合わせて拓いていく友の会という思いをそのまま、法人の名にしたのだ。

そして「都島児童館」。正子は園のことを『館=やかた』と呼ぶ。子どもたちが集まる館。家庭の事情に関係なく、どの子もここに来れば平等にいられる館。ここに来たいと思う児童が集まる館という考えをそのまま園の名称にした。

事業再開に際して正子は保育システムを進化させた。都島児童館のなかに、母親が働いている子どもたちを預かる保育部と、幼児だけで集団生活を学ぶ幼稚園を設置。「児童館」という独自の呼び名のもとで、幼稚園と託児所が一緒になった福祉的幼稚園をつくるという構想を、はっきりと形に表した。

募集に際し、定員四十名を上回る入園希望があった。戦争未亡人、母子家庭、低所得家庭の子ども優先的に選考。保育部と幼児園合わせて、五十名の子どもたちを受け入れた。多くの人の期待に応えて再スタートを切った都島児童館は、毎年、受け入れる園児の数を増やしていった。「ここに来れば子どもたちは誰も平等」という考えは、誰に対しても開かれた場であることを意味していた。富裕層の子どもも、事情のある家庭の子どもも、隔てなく受け入れていく。その信条の実現に向けて、都島児童館をより必要とする子どもたちを優先しながら、施設を拡充し続けた。

1951(昭和26)年の春、修了式からまもなく、卒園児の母親が正子を訪ねてきた。「一年間、ありがとうございました。毎日、楽しそうに児童館に通うてくれて、私も安心して仕事に行けました」と頭を下げると「それで、あの・・」と、正子をじっと見つめて言葉を繋いだ。

「保育園にお世話になっている間は、安心して働けました。けど小学校に上がったら、私が仕事から帰ってくるまで野放しにせなならんようになります。預かってもらえる当てもありませんし、人を頼むにもお金の工面ができません。どないしたらええかと悩んで、夜も眠れません。それで思いあまって、こうして先生に相談にきました」

さぞかし悩んだ末に相談にきたのだろうと正子は母親の気もちを汲んだ。さてどうしたものかと考える正子を、目の前の母親はすがるようにじっと見つめている。そんな目で見つめられてはもう、考えておきましょうとその場をやり過ごすことができなかった。

「それでは、学校の放課後、お母さんがお家に帰ってくるまで、児童館でお預かりしましょう」

相談を受けた正子の方も思いあぐねてそう答えると、母親の顔がぱっと明るくなった。

件の母親が嬉しくて仲のよい母親に話したのだろう。同じ悩みを抱えている母親が正子のもとを訪ねてきた。一人預かるのも二人預かるのも同じと受け入れた。するとまた一人、また一人と同じ悩みを抱える母親が次から次へと現れて、いつの間にか一集団となった。都島児童館のなかで、学童保育が始まった。

終戦から数年、日本は戦後の混乱からの脱出に足掻いていた。園児の親たちの多くは働くことに追われていた。それは戦前戦中の卒園児の親たちも同じことで、その子どもたちにも帰る場所が必要だった。正子の視線はその子たちの方にも向けられていた。

都島児童館の近くに小学校があり、小さな弟や妹を背負って通う子どもたちも多かった。小さな背中におんぶ紐で赤ん坊を背負い、自分の荷物とオムツを両手に提げて歩いている。その姿を見るたびに正子は、小さな子どもを預ける先もない親のことを思った。弟妹を背負ったまま勉強し、放課後も親に代わって面倒を見ている子どものことを思った。ある朝、正子は、そういう子どもを呼び止めて、「うちに置いていきなさい」と声をかけた。学校に行く前に都島児童館に寄って弟妹を預け、学校が終わるとまた立ち寄り、親が仕事から帰ってくる時間までそのまま過ごした。正子は、都島幼稚園や都島児童館の卒園生に限らずそういう子どもたちを受け入れた。

必要としている人に必要な助けをと、目の前の問題に対応する。それと同時に、正子の目は常にその先のビジョン、社会の将来像に向けられていた。戦後の混乱の中、食糧危機打開、闇市闇値撲滅のために、おかみさんたちのリーダーとして活動してきた日々。行動によって現実を変えてきた闘いの日々。その経験を経て社会事業に復帰した正子の経営は、ダイナミックになっていた。

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