第2弾 比嘉正子物語 蒼天に咲くひまわりの愛 全30回

23 ふたたび、都島へ

戦時中、我が子を病で亡くした正子は、その贖罪からもう二度と保育の仕事はしないと心に決めていた。只々、牧子と健の墓を建立してやること、そして二人の短い一生を記録する本を作ること。それだけを生きる支えにしていた正子が、もう一度、助けを求めている人たちのために生きようと立ち上がった。保育園を復活させる。保育を軸にした地域社会づくりを行う。社会事業の道にもどると決めた瞬間、腹の底から力が湧き起こるのを感じた。

逝きし者への愛を生者への愛に変えると心に決めた正子は、二人の墓を建てるために貯めてきた15万円を、保育園再建の費用にあてた。正子の決心を支持してくれた夫賀盛も、快く同意してくれた。都島に行くと、かつての園児や地域の人たちが保育園の土地を確保し、均していた。子どもをのびのびと遊ばせる園庭にも充分な広さがあった。子どもたちが駆けまわる姿を想像すると胸が躍った。保育園再建準備に東奔西走する日々が始まった。

正しいと信じた道を突き進む。その心は晴れ渡っていた。ただ一つの気がかり、「大阪主婦の会」のこれからのことを除いては。

保育園再建準備に奔走するにあたって、正子は、大阪主婦の会の役員の任を解いてくれと頼んだ。落ち着いたらまた活躍するから、しばらくの間、一般会員として参加したいと。しかし正子が欠ければ組織が弱体化すると、認められなかった。保育園再開に走り出した今、後戻りはできなかった。やむを得ず、足が遠のくようになった。役員会に正子が顔を出さなくなったことで脱会者が現れた。それが引き金となって、主婦の会が分裂した。

正子にとっては、社会事業も婦人運動も、同じ土壌に同じ根を張る二本の幹だった。正子の社会事業の理念には、神学校時代に社会学の講義で学んだ「世の中から貧困と不平等を無くさないかぎり人類は救われない」という言葉がある。大阪北市民館保育組合の保母時代、スラムの人たちの苛烈な現実の中で、常に弱いもの、権力のないものの側に立つ自分を確立していった。館長であり師である志賀志那人の「保育こそ救貧」という思想に共鳴した。戦中戦後の庶民の生活の苦しみを前に、生活者による生活を守る闘いをはじめた。主婦の会のはじまりだった。そしてその根本には、子どもたちを守るという強い意思があった。

正子の中では、すべてが繋がっていた。社会事業と婦人運動、保育と生活を守る闘いは、同じ根から育った二本の幹だった。真夏の炎天下、麦わら帽子と下駄履き姿で走り回り、泣き笑いの苦楽を共にした婦人運動の仲間たちのことを思えば心が痛んだ。けれど、今、都島の地で自分を待っている子どもたちを放ってはおけない。生命を脅かすほどの食糧難の時代は越えた。これからの社会を見据えれば、子どもたちの保育と教育に力を注ぐときがきている。子どもは国の宝、社会の未来だ。誤解はいつか解ける。もう思い煩うことはない。そのとき正子の心には、青空保育園を始めたころ、あの若き日の思いが甦っていた。

大阪主婦の会を脱会し、都島区で保育を軸にした町づくりの社会事業に専念すると、関係各位に挨拶状を送った。保育園再建が落ち着いたら、主婦の会でふたたび活躍するという言葉は本心だった。しかし正子には、けじめが必要だった。本意ではなかったにせよ、ことが拗れてしまったことへの責任を取る。それが、婦人運動に幕を引くことだった。

社会事業に専念すると決めた正子はまず、資金の調達に奔走した。土地の購入や園の建設。牧子と健の墓の建立費用の15万円だけでは、とうてい足りなかった。あちこち駆けずり回っても資金集めが思うように捗らないでいるところに、甥が50万円を貸してくれた。この甥は、比嘉一家と一緒に疎開していた姉の一人息子だった。二十八歳で未亡人になった姉が、故郷から遠く離れた大阪で女手一つで育てあげた。やさしくたくましく育った姿に安堵と幸せを感じていたとき、戦地への召集令状が届いた。一人残された姉を、戦渦に女の独り暮らしは不安と正子たち一家が迎え入れた。

終戦後、南方の激戦地から無事帰還した甥は事業を始めた。そして正子の状況を知ると、戦争中に母親がお世話になった恩返しだと無条件で資金を貸してくれた。持ちつ持たれつの世の中とは、うまく言ったものだと正子はありがたくそのお金を受け取った。そして50万円もの大金をぽんと貸してくれる甥の度量に、正子は父宗重から受け継いだヒューマニズムを見た。正子や、正子の向こうにいる子どもと母親たちのために、楽に稼いだはずもない大金を快く出してくれた甥に、正子の心は熱く膨らんだ。

資金を得て園建設は一気に進んだ。正子が社会事業への復帰に二の足を踏んでいる間も、都島では園の再開を望む子どもたちが正子の帰りを待って焼け跡の整地をしていた。バラックの園舎でもいいから、また正子に都島幼稚園を開いてほしいと、地域の人たちが集まっていた。その中には卒園児や親たちの顔もあった。その思いに応えることに正子は夢中になった。終戦から四年、大阪府から保育施設への復旧指令が出たとはいえ、法整備もまったく整わない状況でお国や行政には頼れない。しかし目の前には困窮して苦しんでいる子どもや親たちがいる。この人たちに何が必要なのか、どう助けることができるのか。園の再建に打ち込む正子のもとに集まった近隣の人たちや成長した卒園生たちも建設作業を手伝ってくれた。

大勢の善意に支えられ、この年、1949(昭和24)年の11月、建物が完成した。資材不足の中、材料を寄せ集めてつくった木造二階建て。保育室が二つと応接室を兼ねた事務室、そして掘り炬燵を設えた図書室を配した。小さな建物ではあったが、私設第1号ということで新聞に大きく取り上げられた。これで園の再開を待っている子どもたちを迎えることができると、正子は一歩一歩踏みしめるように園舎を歩いた。園庭に出ると、四年間暮らした疎開先の鴻池新田の村の人たちが寄贈してくれたブランコがあった。小さなブランコに腰をおろして揺れていると懐かしい顔が、その声と一緒に思い出された。

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