第22話 子どもたちが待っている

敗戦後の都会の生活は、食糧難との闘いだった。闇市が横行し、力の弱い者たちは飢えに苦しんだ。このままでは子どもたちを育てていけない、命を守ってやることすら危うい。正子は疎開先の鴻池のおかみさんたちと立ち上がり「主婦の会」をつくった。時の絶対権力GHQの力を追い風にして、食糧危機打開の行動を起こした。主婦の会の仲間たちは増え続け、東京の婦人団体を動かし、日本各地へと行動の波が波及していった。実践によって現実を変えていく。おかみさんの行動が大きく花開こうとしていたこのとき、正子に転機が訪れた。
1949(昭和24)年、大阪府から休園中の保育施設への復旧令が出た。期限内に園再開の意思表示がなければ自然消滅と見なすというものであった。おりしも、疎開先の家主から年内の退居を求められてもいた。終戦から四年。生命を脅かすほどの食糧危機は、いくらか落ち着いてはきていた。しかし物資不足は相変わらずだったし、物価の高騰で、庶民が生活に窮しているのにも変わりはなかった。保育施設の復旧令と引っ越し。正子の頭にあったのは、主婦の会を続けていくために、新しい棲家をどこに見つけるかということだった。
終戦の前年の1月に長女牧子が、2月に長男健が亡くなった。同じ時期に入院し、揃って二年間の加療生活を続けた末の夭折(ようせい)だった。朝晩、見舞いに通いはしたが、我が子二人の看病よりも、戦時保育で預かっている子どもたちを守ることを優先した。正子は母親であるよりも園長であることを選ぶと決断した。二人が逝ってからも戦時保育所を続けた。ここで挫けてしまったら、なおさら牧子と健への申し訳が立たないと、最後の最後まで、都島幼稚園を守った。しかし都島幼稚園は焼失し、戦争にも負けた。すべてが虚しかった。信じるものを見失った。そして、もう二度と保育の仕事はしないと決めた。
今の正子には、おかみさんたちとの生活を守る闘いがあった。新しい形で、子どもたちを守ることに、毎日、東奔西走している。台所に根を下ろした生活者の立場から、子どもたちを待つ明日の社会をすこしでも、よいものにする。現実を動かしていく。牧子や健が喜んだだろう社会をつくる。それが二人への贖罪だと信じた。
そんな正子のもとに来客があった。都島幼稚園の第一回修了児の母親だった。保育施設復旧令が出ても都島に姿を現さない正子を、訪ねてきたのだった。
「皆、先生のお戻りを待ってますんよ」
聞けば、正子の帰りを待って、子どもたちが焼け跡の整地をはじめているという。その言葉を聞いても、正子の心は贖罪の淵に沈んだままだった。愚かな母親だと自分を責める心がかつての情熱を封じ込めていた。
「先生の闇値撲滅のご活躍、新聞なんかで知ってます。お忙しいんやと思いますけど、都島の子どもらのことも忘れんといてやってくださいね」
母親は、都島に戻ることを口にしない正子にそう言うと、「ほな、また」と、その日は帰っていった。
太平洋戦争の戦況が悪化するなかでも周囲の圧力にも屈せず、最後の最後まで都島幼稚園を守り続けた比嘉正子。青空保育園のころから、子どもたちを守るために奮闘する正子の姿を見てきたその母親は、それからも足繁く通ってきた。
「空地にバラックでもよろしいがな。保育園を復活させまひょ」
気力を失い、悔いの中に身を沈める正子をその母親は励ました。戦時保育所のころの母親からも手紙が届いた。
「夫が戦死し、子どもを抱えて生活に困っております。私だけではありません。私と同じような戦争未亡人がいっぱいいて、皆、四苦八苦しております。どうか、また以前のように助けてください」
その文面に、正子は手紙の主と、その後にいる何人、何十人の母親の姿を思った。
「大阪に帰りたいんですけど、どこかに住む家と仕事はありませんやろか」と、疎開先での先行きの見えない生活に疲れ果て、やつれた姿で相談にくる母親もいた。その母親たちは自分にも増して哀れであった。彼女たちを思う心が正子を動かした。
充分に母親らしいことをしてやれないままに亡くしてしまった、牧子と健への贖罪に生きる。もう二度と保育の仕事はしないと決めた心。正子の助けを必要としている母親たちへの情。その間で正子は揺れた。「正しいと信じることを」という自分の声が心の奥底から聞こえた。洗礼を受け、女子神学校で学んだ。夫賀盛とも神学校時代に教会で出会った。自ら自分をクリスチャンと言うことはないが、正子の心の芯には神学校で学んだ慈しみと博愛の精神があった。
その一方で神を否定する正子がいた。牧子と健の葬儀は仏式で行った。我が子二人を亡くした正子の悲しみは、戦争で我が子を亡くした多くの母の悲しみだった。あの戦渦がなければ、あの子たちは命を落とさずにすんだだろうにと、何度思っただろうか。それは、夫を亡くした妻の、愛する家族を亡くした人々の悲しみだった。なぜ、神はこの戦争を許したのか。問い続ける思いが、いつしか神の否定へと変わっていったのだった。なのに正子は大きな選択を前にして祈っていた。博愛、慈愛、献身の精神に自分の行くべき道を見出そうとしていた。
そしてその祈りは、見返りを求めず村人たちのために労を惜しまなかった父宗重の献身的な姿と重なった。正子は自分を哀れむのはよそうと決めた。母親であることよりも園長であることを選んだ自分を、愚かな母親だったと生涯悔み、十字架を背負い続ければいい。しかし自分を哀れんでも、それはけして我が子たちの償いにはならない。父宗重の献身的な姿は、村人たちへの愛だった。「そうだ、人間愛だよ」と正子は無意識に呟いていた。
死者への愛より生者への愛を選ぶ。
「子どもたちが待っている。帰ろう。都島へ帰ろう」
それがいまの正子にとっての正しい道だった。