第21話 不屈、誇り高く

1945(昭和20)年8月15日、玉音放送と同時に三年九カ月に及んだ戦争が終わり、死の恐怖から解放された。そう思った正子だったが、生命の安全はほど遠かった。なぜなら国民たちは飢え、食料戦争が続いていた。
家を失った人たちは路頭に迷った。焼けてしまった家の跡に、焼け残った戸や柱、壁板の一部、トタンなど、そこら中から手当り次第にかき集めてきた材料で、仮の住まいを建てた。バラックと呼ぶ粗末な小屋だが、それでも家の恰好がついているのは贅沢な方だった。トタンを組み立てて夜露を凌げるだけでも御の字。空き地にごろりと雑魚寝という人も、少なくなかった。
日が経つにつれて食糧難はひどくなった。人々は農村や漁村へと買い出しに向かった。芋の一つでもと、食糧を求めての買い出しは競争となった。価格は暴騰し、タケノコの皮を一枚ずつ剥ぐように物々交換して餓えをしのぐ生活の果てに、下着まで食糧と交換する人も出た。そんな状況下でも運と駆け引きの才に恵まれて買い出しに成功し、半分を自分たちの食糧に、残りの半分を闇(ヤミ)市で売りさばく利口な人たちもいた。
女手による食糧調達はどんどん困難になった。身ひとつで焼けだされた女性が、缶詰一個のために春をひさいでいるという話も耳に入ってきた。夫たちも仕事を休んで買い出しに出かけた。買い出しに才を発揮し、闇市で高値で売りさばきヤミ成金になった人たちもいた。女たちの間でも、そういう男性が話題にのぼった。ヤミ商売をしてでも家族を飢えさせない男性は、憧れの的にもなった。ヤミ物資の買い出しひとつ上手くやれない夫をもった主婦は、「能なしの、気の弱い男を亭主にもったんが百年の不作だわ」などと嘆きもした。
平時には、正直者の不器用さ、穏やかさ、生真面目さなどと、美点に数えられていたことがなじられるほど、人の心は荒んでいった。日に日に苛烈になる食糧難に、人の生活が荒廃し、心身が蝕まれていく。玉音放送を聴いても信じられなかった敗戦が、身に染みる現実となって正子を覆った。
銀行勤めの大黒柱がいる正子の家は恵まれている方だった。疎開先とはいえ、ここ鴻池新田には安心して寝起きできる家があった。正子は家庭の平和を守ることに全力を傾けた。いちばんの大仕事は、何と言っても食糧の調達だった。頼みの配給も一週間、二週間の遅配や欠配はざらで、いつ、何日分もらえるか分からなかった。空振り覚悟で配給所に通うのが日課だった。
この日も、今日はお米にありつけるだろうかと、配給所に行こうと家の門を出たところで、近所に住む岩崎ウタとばったり出会った。ウタは「今日も無駄足でっせ」と教えてくれた。二人で嘆いているところに、もう一人、近所の飯田タキがやってきた。タキも無駄足を踏んだ帰り道だった。「なんぼ来られても、上から回ってこなんだら、どないしようもありまへん」と言われたと、憤慨していた。正子、ウタ、タキの三人は、このままでは餓死してしまう、なんとかしなければと話し合った。配給が上で止まっているのなら、その上に交渉するべしと三人は決めた。上とは布施にある米穀配給公団支所のことだった。
この三人の計画に賛同した村のおかみさんたちが十二人。総勢十五人が風呂敷片手に、公団支所に押しかけた。終戦からひと月ほど経った残暑のころだった。翌年5月皇居坂下門前に民衆が押しかけた米よこせデモに先駆けた、大阪の片隅での小さな米よこせデモだった。この小さな米よこせデモは、運も手伝い大成功をおさめた。空っぽの米びつが満たされたことで村人たちは大喜びした。が、村長以下の重鎮からは、江戸時代から続く村のしきたりを破った勝手なふるまいと、正子たちの行動への中傷もあった。意気消沈するおかみさんたちを、正子とウタが奮い立たせた。
「戦争に負けて、封建制度は終わりましたんや」
「自分たちの意思で、生活を守る行動を起こしていきましょう」
正子たちは「主婦の会」を立ち上げた。五十名の会員が集まり、おかみさんたちによる、生活を、家庭を、子どもたちの生命を守る闘いが始まった。
主婦の会の最初の仕事は、大阪市西区にあるGHQ(連合国最高司令官総司令部)への、「米よこせ」の直談判だった。時の絶対権力者に敗戦国の者が、面と向かって要求をする。米は欲しいが、そんな無謀なことをと、会員たちは怯んだ。自分一人だけででも陳情に行くと、正子の意思は固かった。ウタとタキ、そしてもうひとりの仲間が、「一人で行かせられますか」と同行してくれた。
「お米をください。子どもたちの命を守ってください」と、真正面からぶつかっていった正子たちの切実な声は、GHQの情報官の心を動かした。「マッカーサー元帥に、その声を届ける」と約束してくれた。これは大きな一歩だった。正子に自信と度胸を与えた。
自分たちにも、できることがある。行動することで変えられる現実がある。父宗重から受け継いだヒューマニズム、ミス・L・ミードから学んだ自律する女性の在り方。そして身をもって知った子を失くす親の痛み…あんな思いをする母親を増やしてはならない。虚脱の中に燃え尽きたはずの情熱が、小さな炎となって胸の奥にもどってきた。正子は走り続けた。主婦の会の仲間たちと、食糧危機打開のための行動を次々と起こした。
鴻池新田の村から始まった主婦の会は、仲間を増やし、「日本主婦の会」、「大阪主婦の会」、「関西主婦連合会」と規模を拡大し、活動を広げていく。その間、その活躍ぶりに行政からの協力要請があった。それは闇市を取り締まり、物価を安定させるようにという、GHQからの指令遂行に協力してくれというものだった。正子はGHQの力を自分たちおかみさんの力に変えて、生活を守る闘いを躍進させる道を選んだ。もちろんたとえGHQであっても、命令では動かない。言いなりにはならない。たとえ戦争に敗れ、主権を失った国の民であっても隷属はしない。「負けたりといえども、飢えていても、まだ大和魂は残っている」という誇りが、正子の胸にあった。やるからには自分たちの意思で行動する。そう宣言して、闇値に泣く生活者たちを守る闘いをはじめた。
主婦の立場ではじめた社会運動は、「理論は行動のためにある」という信条のもと、つねに弱いもの、権力のないものの側、庶民の立場に立ち、現実を動かした。日本で初めての不買運動など、正子は実践によって生活者のための道を拓き続けた。社会事業に燃やした情熱は、生活を守る闘いという新たな道で、正子を敗戦や我が子を亡くした虚脱から再び立ち上がらせたのだった。