第20話 虚脱に沈む

1945(昭和20)年8月15日。正子は疎開先で玉音放送を聴いた。
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疎開してから三カ月経った6月、大阪への大空襲が再び始まった。6月1日、7日、15日、26日、7月10日、24日、8月14日。二カ月半の間に七回。100機を超えるB-29による大空襲が、大阪の町を舐めるように繰り広げられた。都島幼稚園があった都島は、6月7日の大空襲を受けた。午前11時9分から12時28分までの1時間19分、数百機のB-29が大阪市東部の空を牛耳った。都島区はその八割を被災し、都島幼稚園があった一帯は全焼した。
翌日の8日、正子は、同じく都島から疎開していた婦人と連れ立って、都島の様子を見に出かけた。乗り物はなく、7キロあまりの道を歩いていった。道々、煤にまみれた真っ黒な顔で、ぼろぼろになった衣服をまとって歩いている人たちに出会った。どれほど必死に逃げて逃げて助かったのだろうか。ゴロゴロと転がる死体の間を歩く、その命がけの苦難の果ての姿を前に、正子と連れの婦人は知らず知らずに身を寄せて歩いた。そして、汚れも破れも、火の粉をかぶった焦げ跡もない自分たちの姿に何か申し訳ない気がして、二人揃って身を小さくした。
都島幼稚園の跡地に辿り着いた正子は立ちすくんだ。いや、力が抜けた体を必死に支えて立っていた。黒くくすんだ瓦礫の中に、死体が折り重なって転がっている。声を失くしてしまったそこここの亡骸から、今にも叫び声が、うめき声が聞こえてくるようだった。ここに保育室があり、ここに給食室があり、ここにジャングルジムと滑り台があり、ここにブランコがありと、そこにあった子どもたちの笑顔を思い出しながら、正子は見る影もない跡地を、一歩一歩踏みしめて歩いた。
そして遺体の中に幼稚園を買ってくれた工場の社長の亡骸を見つけた。その痛ましい姿に手を合わせて祈った。売買の話がなったあの日、積めるだけの荷物をトラック一台に積んで、疎開先の家に運んでもらった。もしも閉園後も、子どもたちを再び迎えるまではとここに残っていたなら、自分も空襲の中、逃げずに無我夢中で消火に没頭していただろう。そして必ず、このような最期を遂げていただろう。正子は、社長が身代わりになってくれたような気がして、申し訳なく胸が詰まった。
それこそ命がけで守ってきた都島幼稚園が、跡形もなく灰になってしまった。売却した後とはいえ、喪失感は大きかった。しかし、夫賀盛と、親戚から養女に迎え比嘉家の三女となった貞子(さだこ)と、家族三人揃っての無事への感謝が心を支えた。「あなたはゼロから立ち上がって、やってごらんなさい」。青空保育園を始めるにあたっての、恩師志賀志那人からの言葉が、ふと思い出された。正子の疎開先は、国鉄(現JR)片町線で京橋駅から5駅先の、河内郡鴻池新田西村という所だった。手広い農家を一軒借りて、保育所再開のために運んできたピアノやら遊具、十年間の書類を保管した。戦争終結の先に、また保育所を必要とする子どもたち、親たちがいると、心を強くした。
都島幼稚園が灰となって二カ月経った8月15日、戦争が終わった。日本が敗れた。重大な放送があるので必ず聴くようにと町会からの速報があった。比嘉家のラジオの前に四家族が集まって、固唾を呑んで待った。正午、ラジオから天皇陛下の声が流れてきた。
「(前略)…堪え難きを堪え、忍び難きを忍び…(後略)」
この日の大阪は最高気温が35度を超えていた。カッカと照りつける日差しこそなかったが、居間には粘りつくような空気が淀んでいた。ラジオから流れてくる天皇陛下の淡々としたお声の底に、悲愴な御心を聴いた。思いがけないことに驚き、自分が現実から転げ落ちたような気がした。全身の力が抜けてしまい正座の尻がぺちゃんと床に落ちた。頬が濡れるのもそのままに、ただただぼんやりと聴いていた。放送が終わり、正子たちの周りには窒息しそうに粘った沈黙が充満していた。
その沈黙を破って一人が恐る恐る声を発した。
「ほんまのことでしょうか」
「戦さに負けた、ということやったんか」
負けたという一言にだれもが一瞬言葉を失い、互いの顔を見つめ合った。
「日本が負けるはずがない。何かの間違いだっせ」
堰を切ったようにそれぞれの感情がぶつかり合った。その中に混じった一声に、また皆が声を失った。
「やれやれ、終わってよかった」
いっせいに声の主に向いた一同の目が、「この非国民、何を言うか」と咎めているようだった。
この玉音放送の前日、8月14日は、大阪が最後の大空襲を受けた日だった。狙いは大阪城三の丸地区にある大阪陸軍造兵廠だった。百数十機のB-29から落とされた爆弾は600を遥かに超えた。堅牢な建物を狙う破壊力のある1トン爆弾に吹き飛ばされた人たちの体が、京橋川に積み重なった。風に流された1トン爆弾は、国鉄京橋駅にも落ちた。正子の疎開している鴻池新田西村から5駅、7キロほど先での惨事だった。ドカーンドカーンと耳をつんざくばかりの爆音は地鳴りとなって、正子たちのところまで届いた。
二カ月前、大空襲を受けた都島の町を歩いた日に見た光景。戦争の残忍さをいやというほど見せつけられてきた、昨日までのことが走馬灯のように正子の脳裏を廻っていく。着たきりの防空服で、防空壕に出たり入ったりの繰り返し。空襲警報が解除されれば食料調達の毎日。常に不安にかられ、生命の危険に怯えていた日々。「やれやれ、終わってよかった」という安堵の思いを微塵も感じないではなかった。しかしやはり、玉音放送を信じられないでいる自分たちがいた。神国日本の教育を受けて、神の助けを頼みに最後の勝利を信じていた、信じるほかなかった自分たちが哀れに思えた。
戦況が厳しくなっていくなか、長女牧子と長男健を立て続けに亡くした。自分への罰のような痛みのなかで、正子は園長としての務めを怠ることはなかった。子どもたちを守り続けた。二人を亡くして一年あまり経った1945(昭和20)年の3月、母親であるよりも園長であることを優先して守った都島幼稚園を閉園、売却。そして6月、跡形も無く焼失。それでも何とか、日本の勝利を信じることで耐えた。それが、敗北で終結した。
心が空っぽになった。
私は何をしてきたのか。日に日に憔悴していった牧子と健の姿が浮かんだ。空っぽの心に、何という悪い母親だったのかという思いが甦った。これからは、牧子と健への贖罪のために生きよう。虚脱感の中で、正子に残された思いはそれだけだった。