第10話 保育園を始めなさい

1931(昭和6)年の早春。三人の子どもに恵まれて、慌ただしくも平穏な日々を過ごす比嘉正子のもとに、志賀志那人から手紙が届いた。「話があるゆえ、至急、来られたし」とある。尊敬する師からの呼び出しに、正子は四歳の長女と二歳の次女をお隣さんにあずけ、末っ子の長男をおんぶ紐で背負い、志賀を訪ねた。
「きみ、都島にいって保育園を始めないか。『わたしが子どもを預かってあげましょう』と言って、集めればいい。きみならできる。今日からでもいって、やりなさい」
背からおろした長男を腕に腰を下ろした正子に、無沙汰の挨拶もそこそこに志賀がそう言いだした。多少のことには動じない正子も、これには驚いた。このときのことを正子は手記に、「唐突な話に、びっくり、おったまげてしまった」と書いている。びっくり、おったまげて、うんともすんとも言葉の出ない正子に志賀は続けた。「大雨が降ると、都島から来る子どもたちが足止めになるんだよ」
保育組合がある大阪北市民館と都島の間には、大きな川が横たわり、そこには木の橋が架かっていた。当時、都島には保育園が一つもなく、子どもたちはその橋を渡って、北市民館の保育組合に通っていた。ところが大雨が降ると橋が流されてしまって、子どもたちは足止めをくう。またそれだけでなく、夏の暑さ、冬の寒さで、つい足が遠のく子どもたちがいた。親たちも、家のことやら仕事やらで手一杯なものだから、自分たちの邪魔にならないように、その辺の路地や空き地で遊んでいれば、ついそのままにしてしまう。保育こそ救貧の根幹と考える志賀志那人にとって、それはとうてい手をこまねいて見ていられることではなかった。そこで正子に白羽の矢が立った。
「先生、わたしには、このとおり」
我に返った正子は、腕に抱いた息子を志賀に見せる。「上にもまだ幼い子どもが二人おります。育児やおさんどんで、毎日てんやわんやに暮らしております」
志賀は眉一つ動かさない。
「それに、保育園をつくるようなお金もありません。主人は銀行員の安サラリーマン。先生がお金を出してくれるのですか」
志賀がぴくりと眉を動かした。「馬鹿なことを言うな。ぼくも安サラリーマン、お金があるもんか。金があれば、どんなボンクラでもできるよ。きみなら金がなくてもやれると見ているが…」
そう言って腕を組んだ志賀を前に正子は再び言葉を失った。
「子ども三人育てるのも二十人育てるのも一緒だよ。公園の木陰、太陽の下、立派な園舎である。木の葉っぱや石ころ、虫、草花、みんな自然が与えてくださった子どもたちへの恩物(遊具)である。滑り台やブランコだけが遊び道具じゃない。それがなければ保育園ができないと思うな」
社会事業の草分けとして道を拓き続ける志賀志那人は、正子にとって最も尊敬する師であり、あこがれの的であった。その志賀の揺るぎない自信に満ちた言葉は、正子の腹の底に響いた。すこしだけ時間をくださいと答えて、お隣さんにあずけた子どもたちのもとへと帰った。
やろうと思えば、公園でだって保育園はできるという志賀志那人の言葉は、彼の思想と実践に裏付けられたものだ。志賀は保育組合をつくる前に、大阪北市民館で露天保育所を開いていたことがあった。その露天保育所を発展させたのが、大阪北市民館の保育組合だ。子どもたちの保育と教育を成功させるためには、母親たちの教養と訓練が必要だと、預かる場から保育共同体へと発展させた大阪北市民館保育組合である。そしてこの保育組合で志賀は、建物から子どもたちを解放する屋外保育を郊外で行った。保育組合の保母であった比嘉正子も、この屋外保育に同行していた。
◇
志賀志那人が行った屋外保育の背景には、当時、橋詰せみ郎という人物が展開していた自由教育運動があった。明治の終盤、阪神間に郊外住宅地ができた。ゆとりのある勤め人たちが、都市部から移っていった。中流家庭と呼ばれる中間層だった。富裕層の特権ともいえた幼稚園がつくられた。
1922(大正11)年、橋詰せみ郎という人物が、郊外住宅地の池田室町という土地で、園舎を持たない『家なき幼稚園』を誕生させた。一つに、人口が過密した都市の住環境から脱してきた子どもたちを、なぜ限られた空間である園舎に閉じ込めるのかという問いかけがあった。
「大人の理屈から割り出した園舎などという家や建物から幼児を解放して、純真な大自然の中で、子どもの生命を思いのままに伸びさせよう」とする自由教育だった。
自然の中で伸びやかに子どもの感性を育てていく。この橋詰せみ郎の自由教育思想に、志賀志那人は共感した。人が密集して暮らす都市の生活。その中でも、工場に囲まれた劣悪な環境で生活する、大阪北市民館保育組合の子どもたち。志賀は、夏期の郊外保育という形で行った。そしてこの郊外保育に、保母である比嘉正子も参加していた。
◇
夏期郊外保育、そこでは広々とした自然の中で子どもたちは自由に駆けまわった。煙突から吐き出される黒煙はなく、土は油じみていず、草も黒ずんでいない。空は青く、緑色をした草の上には透き通った夏の光が落ちている。はしゃぎ駆けまわる子どもたちの姿は生命力に溢れていた。その姿は志賀志那人や比嘉正子たち同行の保育者にとって、喜ばしいことだった。
その一方で、正子たち保母は気を張った。はしゃぐ子どもの、すばしっこさは驚くほどだ。皆で子どもたちの行動に目を配った。が、一人の子どもが、あろうことか野壺にはまってしまった。すぐに気づいてすくい上げて大事にこそならなかったが、正子は胆を冷やした。どれほど注意していても、ほんの一瞬の隙、瞬き一つする間に事故は起こる。園舎という囲いから出るということは、それだけ事故の可能性が高まるということだ。
「公園の木陰、太陽の下、立派な園舎である。木の葉っぱや石ころ、虫、草花、みんな自然が与えてくださった子どもたちへの恩物(遊具)である」園舎や園庭がなくても保育園はできるという志賀志那人の言葉に、大きな希望を感じた。同時に子どもたちを守る責任を思った。はたして、私にできるだろうか。四歳と二歳、そして乳飲み子の三人を育てながら、できるだろうか。そんな戸惑いの一方で、やってみたいという思いが湧き上がってもいた。