第7話 保母として社会の坩堝へ

神学校卒業を三カ月後に控えたある日、正子は神学校を抜け出し、そのまま戻らなかった。正子が行方不明になったと神学校が大騒ぎしているとき、当の本人は大阪市北区のスラムの一角にある、大阪市立大阪北市民館の保育組合で、保母として働きはじめていた。
大阪市立大阪北市民館は、日本初の公立セツルメントだった。大阪北市民館があった天神橋筋六丁目、通称天六から長柄辺りは当時、スラムだった。人々は来る日も来る日も、その日を生きのびるために必死だった。ミス・L・ミードの理解を得て、正子が保母となった保育組合に通う子どもたちの家庭も、その例外ではなかった。両親ともに朝から晩まで働き通しだった。子どもたちは弁当持参で朝から夕方までを保育組合で過ごした。弁当はたいてい、ご飯の上に梅干し一個をのせた日の丸弁当だった。それでも弁当を持ってくる子はまだいい方で、持ってきていない子もいる。
親も仕事やら家のことやらに追われて、子どもの弁当をつくるどころではないのだろう。さりとて、育ち盛りの子どもが昼ご飯抜きというのは、さぞかし辛いだろう。どうしたものかと、正子はそんな子どもたちを見ていた。すると弁当を持ってきていない子が、なにやらコソコソと動いている。弁当にパンを持ってきた子が、固くなった皮をちぎって捨てたのを拾って食べているのだった。皆から顔を背けて隠れるように、口を小さくもぐもぐとさせている。
正子は昼休みになると、弁当を持ってきていない子どもたちを家に帰らせることにした。時間に追われる母親たちに弁当をつくってやってくれと負担を強いるよりも、ご飯を食べに家に帰らせる方がよい。決まりどおりよりも現実に合わせて、子どもたちに良い方法を選ぶぼうと考えてのことだった。
しかし現実は正子が考えたようなことではなかった。弁当を持ってきていない子には、家に帰っても昼ご飯などなかったのだ。そういう家庭では朝昼晩と決まった食事が出るわけではなかった。親が労賃を得て、食べるものを手にしたときが食事時だったのだ。北の長柄、天六、南の釜ヶ崎と、当時の大阪のスラムを代表する町に住む子どもたちの現実は、理想と情熱に燃える若い正子の思い及ぶものではなかったのだ。
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大阪のスラムは明治時代の産業発展に端を発する。明治政府の国策のもと、水都大阪は紡績産業や製鉄産業が発展。1915(大正4)年、大阪市は面積と人口で日本第一位、世界第六位の都市となった。大阪が「大大阪」と呼ばれたこの時代、第一次世界大戦(1914~1918)が重なっていた。戦争景気を背景に産業化は急進、労働力を求める都市部へと人が流れ込んだ。富国を謳う国策と戦争景気による産業化の急進の一方で、独占的資本主義体制が確立されていった。富める者と貧困の中に沈む者とが分かれていった。貧富の差は拡大していき、スラムが生まれた。華やかなる大大阪にもスラムが生まれた。江戸時代から水害が多かった長柄、釜ヶ崎辺りは、強くその様相を帯びていった。
比嘉正子が勤めた大阪市立大阪北市民館保育組合は、この長柄の南側に続く天六にあった。町の様相は長柄と変わりなかった。大きな工場に囲まれて小さな会社が並んだ。そこに小さな店屋や飲食店、労働者の住宅が密集した。二十軒ほどの家が密集する地区、一棟に数十世帯が居住する木賃宿などが錯綜していた。治安や衛生にも深刻な問題があったことは想像に難くない。1918 (大正7)年、米の値段の急騰に日本各地で暴動が起こった。大阪市でも米騒動が起こった。米穀類が文字通りの主食であった当時、工場などで働く労働者たちにとって、米のべらぼうな値上がりは死活問題だった。これを機に、大阪市は社会事業への注力をいっそう強化した。
1925(大正14)年、日本初の公立セツルメント施設、大阪市立大阪北市民館が設立された。大阪の代表的なスラム長柄と、それに隣接する天六地域の人たちの、生活の質実の向上を目的とした。鉄筋コンクリート地下一階、地上四階、大正ロマンという言葉が似合う洋館だった。人々の精神向上を図ろうとするセツルメント発祥の理念を思わせる、この施設創設に尽力したのが志賀志那人(しがしなと)だった。
志賀志那人は、大阪北市民館の初代館長となり、地域の人たちの生活の質実向上に取り組んだ。その中核となる事業に、金融と保育があった。
「四十数万本の煙突が煤煙を噴き出す工場地帯。地面伝いに広がる振動、がなりたてる音、一帯を包む煤煙に黒ずんだ雑草、油じんだ土。そのなかに犇(ひし)めき合って生活する労働者たち。親はその日その日の生計を立てるのに精一杯で、野放しになった子どもたちは路地や隙間のような空き地で遊ぶ。劣悪な環境のなかで養育を放棄されたような子たちも珍しくはなく、乳児の死亡率は極めて高かった」(志賀志那人)
これは志賀志那人が著した、当時の長柄から天六地域の姿だ。「保育こそ救貧の根幹」と考える志賀志那人にとって、保育事業は差し迫った重要課題だった。そして家庭における、さらに地域における保育環境を整える重要性を説いた。とくに育児の中心である母親と保育組合の保母が、友愛を結び、子どもたちを育てていくことを理念の一つとした。
1926(大正15)年、正子はこの保育組合の保母として、日本の都市福祉を牽引する志賀志那人を師に、社会事業家への第一歩を踏み出したのだった。
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子どもたちのお母さま、お姉さまであり、保護者にとっての親友、頼もしい相談相手である。そして自然な交友のなかで、保育組合の組合員である彼らと連帯を結んでいく。志賀支那人が求めた保育者の役割、母親たち保護者との打ち解けた関係は、日常の積み重ねのうえに築かれるものだった。その在り方について、志賀支那人はこう述べている。
「毎朝の集まりに子どもを連れてくる人達と保育者との親しい挨拶や、雨降りのために保育を休んだりする時、保母達が第一の任務として課せられている子どもの家への訪問に際に於ける膝つきあわせての距てのない会話に溶けあった心が、親と子と組合とをむすびあわせる親しみの、強い源である」
快活で気どらない正子にとって出会う人たちとの親しい挨拶は求められるまでもないことだった。家庭訪問は女子神学校時代に実習を受けていたミード社会館でも大切にしていて、地域の一員、隣人としての友愛がセツルメント活動の基盤になることは理解していた。
正子はすすんで子どもたちの家庭を訪問した。そしてこの家庭訪問で、弁当を持ってこない子たちは、親が忙しく弁当をつくる時間がないからではなく、持ってくる弁当がないからだということを知った。その子たちにとって、食事は朝昼晩と日に三度決まっていただくものではなく、親が賃金を手にしたときのみ与えられるものだということを。
誰かが食べ残したら、それを奪い合う。固くなったパンの皮を捨てる子がいれば、それをこっそり拾って食べる。それは一度の弁当が抜かれただけの空腹のせいではなかった。親が弁当をつくる時間がないのなら、昼ご飯を食べに返してやればいいと考えた自分の甘さを知らされた。「お弁当を忘れたなら、お家に食べに帰っておいで」と先生に言われて黙って帰っていった子どもの気もちを思うと胸が痛んだ。
故郷首里での暮らしも貧しかった。十四、五歳の正子は父が敷地の畑でつくった野菜を市場で売って学費の工面もしたし、女子神学校はミッションが費用を負担してくれたから通えた。貧乏のどん底を味わってきたと思っていたが、それは真底貧困と呼ぶものではなかったと、あらためて思い知った。 粗食であっても日に三度のご飯は当たり前で、女学校時代や神学校時代には友だちと遊びに行くこともできた。正子が飛び込んだ社会の坩堝にあった貧困は、とうてい彼女の想像の及ぶものではなかった。