第44話 町づくり計画の一翼を担う|理念
都島友渕保育園、都島桜宮保育園。都島区の二つの地区の再開発における保育環境づくりを担う二つの保育園。施設の設計に、新しい町のコンセプト、土地の歴史や風土、そして創設から五十年、六十年と変わらぬ情熱と愛で子どもたちへ注いできた、比嘉正子の保育と教育への思い。その思い、理念を新しい園の新しい保母たちにどう伝え、日々の保育での実践にどう結びつけるか。それが渡久地歌子のテーマとなった。
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「小さな園だが、あなたの手で新たにつくり、運営していきなさい」都島友渕保育園の建設担当を任じたときにそう言ったとおり、正子は渡久地歌子を園長にした。園長となった歌子は、のびのびとした自由保育で子どもの自主性を養うことを保育方針の最初に置いた。比嘉正子は自主性を重んじた。自らの意思をもち、行動し、責任を負う、知・体・徳の育成。先生の言いつけに従うのではなく、子どもが自発的に行動するように導く保育。そのために考え工夫するのが、保育者であり教育者だと、日々保母たちに説いた。正子が職員を厳しく叱責するのは、その保育の姿勢が見えないときだった。
子どもの自主性の尊重。正子はこの考えを広く社会にも訴えた。日本の消費者運動のパイオニアとして生活者を守る闘いを繰り広げてきた正子。彼女にとって、子どもも大人同様の生活者だった。大人と同じように子どもにも人としての権利があり、責任がある。
1948(昭和23)年7月20 日、『こどもの日』が制定された。1955(昭和30)年5月5日の『こどもの日』、正子は子どもの権利を謳うイベントを行った。
まず都島児童館の近辺を子どもたちが練り歩くパレードを行い、その後、子どもの意見発表会を行った。意見発表会では、都島児童館の学童の子どもを中心に小学生たちが、自分が総理大臣になって、自分たちが思う社会の在り方を述べた。保護者や地域の人たち、区行政の従事者たちが、「僕らの主張、私たちの意見を聞いてください」という子どもたちの言葉に耳を傾けた。
子どもの権利、女性の権利。身分制度や男尊女卑の考えが残る明治末期の沖縄に生まれ、十八歳で女性が家の中心になるお家はん文化の大阪に単身移り住み、その大阪で女性も自分の意思を表し行動するのだと教えるアメリカ人女性、ミス・L・ミードに薫陶を受けた。戦後の民主化を追い風に、おかみさんたちと自主の精神で生活を守る闘いを繰り広げてきた正子。
渡久地歌子は社会人としてスタートを切ったとき比嘉夫妻に出会い、公私にわたって正子の姿を見てきた。一人の人として何を愛し、社会事業家、保育者として何を重んじて歩んできたのか。「小さな園だが、あなたの手で新たにつくり、運営していきなさい」と託された新しい保育園の保育方針を考えるとき、歌子は比嘉先生なら何をその根底に置くか、正子の半生に思いを馳せて考えた。
のびのびとした自由保育のなかで、子どもの自主性を育てる。そのうえに責任感と社会性を養っていく。それが歌子の導きだした結論だった。ではその方針をどう職員たちに浸透させていくか。
「子どもに“させる”ではなく、子どもが“する”という言葉をつかうことにします」
歌子は職員を集めて、そう発表した。
「たとえば粘土遊びをさせるではなく、粘土遊びをする。話すときも書くときも、すべて“子どもがする”としてください」
子どもたちをのびのびさせるのではなく、子どもがのびのびする。そういう環境をつくっていくことが自分たち保母、保育者の役目だ。折に触れて正子が伝えてきた大切なこと。これを保母たちが日々の仕事のなかで、実践のなかで実感するには、どうすればいいか。
「理屈は後からついてくるんだよ。まずやってみる。そうすると実践のなかで言葉の意味が分かってくる。肌身で感じて、言葉が伝えていることの意味の大きさが分かるんだよ。だからあんたも、私の言うことに逆らう前にやってみてごらん」幾度となく歌子が正子に聞かされてきた言葉だった。そして保育方針の浸透を考え抜いていきついたのが、正子のこの言葉だった。まず、やってみる。その具体的な実行方法が「子どもにさせる」から「子どもがする」への言葉づかいの変更だった。
この取り組みについて聞いたとき、正子は「おもしろいね、やってごらんなさい」と言った。「子どもたちも、保母たちもどう変わるか。楽しみだね」と。
言葉づかいを改めて数カ月経ったころ、「園長先生、言葉ってすごいですね」と、一人の保母が歌子に言った。子どもがするという言葉をつかうと、自然と子どもの動き、子どもの気もちを想像して考えていると言うのだ。
ともすれば一日のうち、家庭にいるよりも長い時間を過ごす保育園での経験。それは子どもたちの人格形成、これからの人生に大きく左右する。
「自由保育というのは、子どもの意識は自由であって、そこに用意された環境や保育者の心の通った誘導で、豊かな経験や活動を行うことによって、子どもの心身が正しく伸ばされるものをいうのである。いろいろな特徴をもった子どもが集まって、しかも皆平等であるが、勝手気ままは許されない。集団生活の中では、よそでは求めることのできない経験が得られ、そういう所でこそ、皆と楽しく遊ぶには、どうしていけばよいのかを学ぶことができるのである。言い換えれば、子どもたちは、保育所に通って仲間との生活から学習できるのであり、保育者は、その仲間を上手くつながり、活動できるように舵取りをするのである」
これは、1931(昭和6)年、青空保育園が園舎と園庭を持ち、私立都島幼稚園となったとき、正子が保育方針にたてた自由保育の考えだ。正子は保母たちだけでなく、保育方針実践の協力者である保護者たちにも理解を求めたのだった。
子どもがのびのびとする環境を整えていく。その土壌として、職員たちが「子どもがする」という意識を持つ。これは渡久地歌子が園長を務めた二つ目の園、都島桜宮保育園でも行った。そして、新しい町の新しい園ではじまったこの実践は、やがて社会福祉法人都島友の会すべての園で行うようになった。町の次代に向けた事業が、創設者比嘉正子の理念を、新しい形で社会福祉法人都島友の会の次代へと繋いだバトンだった。