第2弾 比嘉正子物語 蒼天に咲くひまわりの愛 全30回

40 故郷、沖縄に保育園を | 新しい風

アメリカ帰りの若い設計士によって、「保育園だから」という既成概念を一切とりはらった建物が、古島地域、松島にできあがった。

外壁はコンクリートの打ちっぱなし。ひまわりを模して、円形の保育室を放射線状に配置。どの保育室からも、正子が生まれ育った小高い首里の丘が見渡せた。

斜面の土地を生かして、エントランスを二階につくり、管理部分とゼロ歳から二歳児の保育室を配置。一階には三歳から四歳児の保育室と、雨の日の遊技場になる砂場のあるピロティを配した。屋外にはプールや総合遊具を置いた。

見晴らしのいい保育室は沖縄の夏でもエアコンが不要なほど風通しがよく、広がる景色に一日の時間の流れを感じることができた。昇り沈む日差しの変化の中で表情を変えていく豊かな緑。新しい町で育つ子どもたちが、南国沖縄の悠久の美しさを感じて育っていく。

雨の日も砂遊びができるピロティ。屋外の遊技場。そして国の史跡の末吉宮(すえよしぐう)跡、蛍が飛ぶ川、日本で最初に開花を告げる桜の木がある広大な末吉公園で、生い茂る南国の木々のなか自然に触れる野外学習。豊かな自然の中で思いきり体を動かし、健康、情操、思考力、忍耐力を育てていく保育理念は、姉妹園の渡保育園と同じだった。

1982(昭和57)年4月1日、町の名をつけた「松島保育園」が、伊禮正義を園長に開園した。新しい町が開けば保育所を必要とする家庭が増えるという正子の予測どおり、定員六十名をはるかに超える希望者があった。

健やかで明朗な子ども。やさしく思いやりのある子ども。ものごとをよく見て深く考える子ども。伸びやかな環境における、自主性、自立心、社会性、そして自他を尊重する精神が育っていく自由保育。

伊禮蓉子、正義夫妻が園長として掲げた渡保育園と松島保育園の保育理念は、正子が望む理念そのものだった。

1931(昭和6)年創設の青空保育園に始まる、保育と幼児教育を併せた福祉的幼稚園。託児所は救貧施策の一環として捉えられ、幼児教育を行うという精神のなかった時代に、家庭がどうこうあろうと子どもたちは平等だと、戦時保育所においても幼児教育を続けてきた正子。

「三つ子の魂百まで」と言うように、ゼロ歳から五歳までは人生の基盤をつくる大切な時期。幼児教育はいかに大切であるか。正子と出会う前から乳幼児教育を大切に思っていた蓉子にとって、正子が続けてきた福祉的幼稚園の考えは、まさに思い描いていたものだった。

さらに保育は預かりではない。親に代わって身の回りの世話をするだけではない。将来を託す社会の担い手を育てていく重要な仕事。そしてその仕事は、家庭や地域と力を合わせて進めなければならない。都島で保育を軸にした地域社会づくりを展開してきたように、沖縄でも保育を軸にした地域づくりを展開していくという構想。これについても蓉子は、我が意を得たりという思いだった。彼女自身、正子と出会う前から「良い子を守る母親の会」の会長を務めていた。

母の会をつくり、共に子どもを育てる社会をつくっていく。保育を軸に地域社会づくりをする。社会福祉法人都島友の会の保育とは、子どもを守り育てるための環境を、施設を拠点に広く地域に整えていくことである。その考えを同じくする伊禮蓉子と正義は、法人本拠地の大阪から遠く離れた沖縄の二園を、全幅の信頼をもって託せる人物だった。

そしてもう一つ。正子と伊禮夫妻には、故郷沖縄への深い愛という共通項があった。広がる青空と、空の青さを映し出す美ら海、そして空と海の青の間に映える深い緑と鮮やかな花々。その島で受け継がれる悠久の歴史。教育を重んじ、文化を大切にしてきた琉球の時代からの伝統。その沖縄の美しさを子どもたちに引き継いでゆく。かつて琉球王府で科挙を目指した父宗重の士族としての誇りを、どんな苦境にあっても、自分を哀れんだり卑下したりすることなく道を切り開く力として受け継いできた正子。次代を託す子どもたちにも、故郷を愛し誇る、明るくたくましい心を持ってほしかった。

渡保育園と松島保育園では、催事に沖縄の民俗や伝統的な行事を取り入れた。体を動かして遊びながら文化を知る。それは故郷沖縄への愛を育てるだけでなく、子どもたちが大きくなったとき、自分を見つめる助けになる。自分のルーツを知ること、愛することで、人のそれもまた尊重できる子ども。自信を持って自分の道を歩いていく子ども。楽しみごとのなかで、そういう心が自然と育っていくことを願った。

正子は都島児童館で、体操、ピアノ、習字、読書など、いろいろなクラブ活動を用意し、子どもたちが自由に参加できるようにしていた。いろいろな経験をしておくことが、将来の選択肢を増やすという考えからだった。自分は何に夢中になれたか、いろいろな中で何が楽しかったか、がんばれたのはどんなことだったか。進路を決める時期がきたとき、自分の経験を振り返ることで自分に適していることを見出し、進む道を自分で決める助けとなる。正子にとって自主性を育てるとは、そういうことだった。

生まれ故郷沖縄と、自から根をおろした第二の故郷大阪。二つの故郷での、保育を軸にした地域社会づくりを進める正子。沖縄に二つ目の保育園を開園した1982(昭和57)年には、都島の町づくり計画の一翼を担う事業に着手していた。

次回第41話の配信は、新年1月12日となります。

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