第38話 故郷、沖縄に保育園を|願いを胸に
終戦から十六年後の1961(昭和36)年、正子は沖縄に帰郷した。沖縄での活動の件で、軍政部の情報官と面会した後、琉球列島政府高等弁務官のポール・ワイアット・キャラウェイ中将から、会いたいので来てくれと連絡があった。行くと、キャラウェイ夫人のホームパーティーへの招待だった。
和やかな雰囲気のなか、キャラウェイ高等弁務官と差し向かいで話す時間にも恵まれた。正子は、故郷沖縄への愛を語り、日本返還への願いを伝え、さらに、ぜひ遅れている沖縄の社会保障制度を整えてほしいと訴えた。
キャラウェイ高等弁務官は、日本返還については黙って耳を傾けるのみだったが、社会保障制度については、「五年後を見に来てほしい」と返答した。
その後沖縄では、1963(昭和38)年に「労働者災害補償保険法」、1965(昭和40)年に「医療保険法」「公務員退職年金法」制定と、法整備が進められた。そして1965(昭和40)年には、各種社会保険事業の運営のために、琉球厚生局の外局として社会保険庁が設置され、労災や雇用保険などを所管した。
キャラウェイ弁務官の言葉を信じて待っていた正子には、少しずつ、沖縄の社会がよくなっていくのが嬉しかった。キャラウェイ夫人のホームパーティーから八年後の1969(昭和44)年、正子は沖縄を訪れ、その当時の高等弁務官ジェームス・ベンジャミン・ランパート中将夫人のホームパーティーに招待された。
この二年前の1967(昭和42)年、日米首脳会談で、二、三年のうちに沖縄の日本返還の時期を決定すると合意がなされていた。正子は一日も早い実現への願いを、ジェームス・B・ランパート高等弁務官に伝えると、ランパート夫人や他のゲストの婦人たちとの交流を楽しんだ。
前回、1961(昭和36)年の沖縄来訪時、多くの婦人たちが正子の講演を要望した。そして1965(昭和40)年ごろになると、沖縄では女性実業家たちが活躍していた。男子の跡継ぎの不在が家業の没落を意味していた五十年程前の沖縄では、考えられないことだった。
社会は変わる。希望を持って進んでいけば明るい方へと変えていける。都島での地域社会づくりを進めてきたように、この沖縄でも子どもを軸に地域社会をつくっていける。新たな希望を胸に抱く正子は、女子神学校で女性の自主精神を教えてくれたミス・L・ミードの母国でもあるアメリカの女性たちと、大きな声で笑い合い、大いに語り合った。
ちょうどこの年、1969(昭和44)年、沖縄に初めての公立保育園ができ、正子が経営するゼロ歳児保育専門施設「乳児保育センター」から職員が一人、移っていった。知識と技術、経験による対応力のある職員をとの条件で選ばれてのことだった。この沖縄でも女性の社会進出が進んでいて、それに対応する保育環境が求められていた。
米軍統治下にあった沖縄では、幼稚園は小学校に併設し、義務教育とされていた。その一方で保育所の整備は充分ではなかった。託児施設はほとんどが無認可のベビーホテルで、認可を受けた民間の保育所が数カ所。公立保育園はこの年が初開設という状況だった。
ランパート高等弁務官夫人のホームパーティーから二年後の1971(昭和46)年6月、沖縄の日本返還が決まった。折もおり、生家の土地をどうするかの話が持ちあがった。正子はあたためてきた沖縄での保育園開設の構想について姉たちに話し、四人姉妹の名での保育園建設に役立てることが決まった。
1972(昭和47)年5月15日、沖縄県が日本に返還された。都島児童センター建設を完成させた正子は、沖縄復帰の記念事業として、すぐさま沖縄の保育園開設に取りかかった。
日本復帰後すぐの沖縄での事業は、進展に困難を極めた。沖縄県と那覇市からの指導、厚生省と大阪府からの監督と、複数の行政機関との連絡調整が複雑で、開設認可書を取るにも一苦労だった。さらに費用調達のために、補助金を出してくれる団体への報告書作成もあった。都島児童センターが完成し、ひと息つきたいところだった大阪本部は対応に追われた。職員たちを叱咤激励しながら正子は資金調達に奔走した。
建設工事がはじまって数カ月後の1973(昭和48)年10月、第一次石油ショックが起きた。さらに1975年開催の沖縄海洋博に向けての建設ラッシュがはじまった。鉄筋コンクリートの建設作業員は不足し、資材の高騰は社会問題になるほどだった。保育園の建設費もどんどん跳ね上がっていった。
前年完成した都島児童センターの建設費用に1億3千万円を工面したばかりだった。ゼロからの資金調達といってもよかった。融資や補助金、寄付金集めにと、正子は文字どおり駆けずり回った。
社会事業振興会からの借り入れ、沖縄県の補助金などに加えて、比嘉正子が1千万円を出資。さらに正子の思いに賛同してくれた伊禮正義(いれいまさよし)、蓉子(ようこ)という夫妻から1千万の寄付。伊禮氏からの紹介で山本猛夫(やまもとたけお)という人物からの援助金などで、総額1億5千万円が集まった。
思わぬ建設費高騰に苦しんだが、泡盛の造り酒屋だった生家の伝統的な趣とモダンさが融合した、ユニークな子どもの殿堂ができあがった。1974(昭和49)年4月、沖縄県那覇市首里金城町の「渡(わたり)保育園」の門を、第一期の園児たちがくぐった。渡保育園の名は、渡嘉敷家の頭文字「渡」をとって名づけられた。園庭に建立された父渡嘉敷宗重の胸像が、園内に響く子どもたちの声を聞いていた。
資金調達に助け船を出してくれた伊禮夫妻。両名は正子の沖縄における保育事業展開の同志となり、沖縄での事業を軌道にのせるために献身的活躍をしてくれるのだった。