第37話 故郷、沖縄に保育園を|正子の悲願
1972(昭和47)年5月15日、この日、沖縄が日本に返還された。二十七年間に亘ったアメリカ軍統治からの「本土復帰」だった。
1972(昭和47)年、地域の児童福祉の拠点となる子どもの殿堂、都島児童センターを建設。保育と幼児教育を併せて行う福祉的保育園、児童厚生施設、ゼロ歳児保育専門施設、障がい児療育施設と、児童福祉の充実を推し進めてきた比嘉正子。そんな正子の悲願は、故郷沖縄に保育園を開設することだった。
1931(昭和6)年3月に青空保育園を開設してから40年を経て、都島友の会は、地域の人から、「子どものことなら『比嘉さんの児童館』」と言われるようになっていた。保育を軸に地域社会をつくる。1949(昭和24)年、都島で待つ人たちの期待に応えて復帰した社会事業は、この地にしっかりと根を張った。
かつて保育園が一つもなかった都島に、子育て世代が多く暮らすようになった。正子にとって第二の故郷となった都島。その町を思う心は、生まれ故郷、沖縄への思いも、また育てていた。
正子が大阪の女子神学校進学のために沖縄を後にしたのは1923(大正12)年。卒業後には沖縄に戻るのだからと、しぶしぶ承知した父渡嘉敷宗重の意に反して、正子はそのまま大阪で社会事業の道に進んだ。
正子の家は代々、琉球王府に納める泡盛をつくる士族だった。士族の商売は明治の廃藩置県と近代化で斜陽となり、宗重は廃業を決めた。一度は廃業した家業再興を正子に託していた宗重が正子を連れ戻しにきたときには、結婚し母親になっていた。幼いころから利発で聡明な末娘、正子に家の再興を託していた宗重の失望は計り知れなかった。
当時の沖縄の風習は男系制度で、跡継ぎとなる男子がいなければ家系の没落を意味した。正子には二人の兄がいたが、次兄、長兄と続けて亡くなっていた。加療生活が続いた長兄の療養費に宗重は、田地田畑をすべて売り払った。その甲斐無く跡継ぎを失った宗重は、廃業を決断した。断腸の思いで廃業を決めた宗重だったが、心の奥底では末娘の正子による家の再興を望んでいた。先祖代々の遺産である家屋敷だけは残せるうちにと、思い切って廃業を決めた理由には、才覚があると見込んだ正子への期待があった。
男系制度という風習にもかかわらず、末娘である自分への父の期待をまったく知らなかった正子ではなかった。しかし身分制度や男尊女卑の風習が残る沖縄での人生を、正子は選ばなかった。
都島児童センターの建設計画を練りはじめた1970(昭和45)年ごろ、生家の土地をどうするかという話が持ちあがった。四人姉妹は皆、他家に嫁ぎ、渡嘉敷の姓を継いでいる者は誰もいなかった。終戦から二十五年。両親は沖縄戦で亡くなり、誰も住まない生家には、庭だけでなく朽ちた家の中にも草が生い茂り、荒れ果てていた。土地を売ってしまえという親戚もいたが、どれほど暮らしに困っても土地家屋を手放さなかった宗重を思うと、そんな気にはなれなかった。正子は三人の姉と話し合い、四姉妹名で保育園建設のために役立てることにした。日本への沖縄返還が決まった1971年ごろのことだった。
身分制度や男尊女卑の風習が色濃く残る風土が重苦しく、沖縄を後にした正子だったが、故郷への愛は深かった。
大阪で保育事業を始めた1931 (昭和6)年、満州事変が起こり、1933(昭和8)年に国連脱退。強まりゆく戦時色のなか、都島の子どもたちを守ることに専心。終戦直後、食糧難から子どもたちを守ろうと、GHQに米よこせと直談判。それを機に闇値切り崩し運動を展開し、主婦たちのリーダーとなって日本の消費者運動を牽引。婦人運動の旗手として活躍する一方で、1949(昭和24)年からは、都島の児童福祉の発展に力を尽くしてきた。沖縄への愛を行動に変えるには、時がなかった。
正子が故郷、沖縄を訪れたのは、終戦から十六年後の1961(昭和36)年だった。「政治活動はいたしません」と一筆記して許された沖縄入りだった。正子は大同団結をモットーに、思想信条にとらわれず様々な組織や団体と協力して消費者運動を展開していた。その余波で、正子たちの主婦の会も、政治色が強い組織と思われることもあったのだった。
ひっそりと帰郷するつもりの正子だったが、那覇空港に着くと新聞社の取材陣が待ち構えていた。押しかける記者たちをノーコメントでやり過ごすと、次は婦人会の女性たちが待っていた。
日本初の不買運動実行など消費者運動のパイオニアとして活躍する比嘉正子は、たびたび新聞やラジオのニュースに取り上げられていた。その正子に講演会を依頼しようと待っていたのだった。沖縄滞在中は控え目にと心していた正子は、婦人会の講演依頼もすべて断わった。そんな正子に、婦人会の面々は「ひどい」と苦情を言い立てた。
戦後正子たちの主婦の会は、自分で考え、意見を述べ、行動する。敗戦の痛みの中で婦人が得た自由だった。責任を持って自分の意思で行動する、かしこい女性、お母さんになろう。生活を守り、子どもを守ろう。その自由のために学ぼう。大阪でおかみさんたちと続けてきた、民主精神による実践だった。
男尊女卑の考えが根強かった沖縄の女性たちが、正子たちのその実践を聞こうと熱望している。それに応えることは間違ったことなのか。禁じられることなのか。正子は軍政部の情報官に会いにいった。
「婦人たちが私の話を聞きたいと言っています。講演の中では政治に触れることもあろうかと断わっておりますが、彼女たちの熱意に応えたく存じます。沖縄で政治活動はいたしませんという約束を、取り消していただきたくお願いに参りました」
正子が話し終わると、情報官はよく分かったという表情で「あなたの行動や言動を禁止していません。今日、軍政部に来たあなたの行動は、正しいです。自由に行動してください」と言った。
直接会って嘘偽りのない心で率直に話をする。物事の解決にはそれがいちばんだという正子の行動が、また道を開いた。