第2弾 比嘉正子物語 蒼天に咲くひまわりの愛 全30回

36 障がい児療育の先駆けとして

1972(昭和47)年に、地域の児童福祉拠点となるという意思で新築した子どもの殿堂、都島児童センター。その建設にあたって正子は、身障児療育園を新設した。都島児童館ではそれまでも身障児を受け入れ、一人ひとりの子どもに沿った保育を行っていた。その中には、ポリオウイルス感染による麻痺を起こした子どもたちもいた。

1960(昭和35)年、ポリオウイルスが大流行し、患者が五千人を超えた。都島の町でも流行した。正子は他の身障児と同じように、ポリオウイルスに罹患し、麻痺が生じた子どもたちも受け入れた。

1965年ごろ(昭和40年代前半)までは、障がい児は各家庭で隔離状態におくのが一般的で、公的対策のないままだった。 1970(昭和45)年ごろに、心身障がい児の療育、保育がやっと専門性をもって取りあげられるようになったが、やはり対策は立ち遅れていた。しかし、障がい児を家庭で隔離する時代から、専門的な施設での保育の時代へと社会は変わっていくと、正子は将来を見据えた。

「子どもの殿堂に、身障児専門の療育園をつくろう」

社会の変化に先駆けての新たな展開だった。療育園の設計に向けて正子は、社会福祉法人愛徳姉妹会が運営する「聖母整肢園」へ見学に行き、学びを得た。

1949(昭和24)年から身障児を受け入れ保育してきたが、近代的な施設建設にあたって、できうる限りの最善を目指したかった。当時あった都島病院の診療に協力してくれている大阪大学、大阪市立大学の医師に相談したら、身障児療育の第一人者、井上明生(いのうえあきお)という医師を紹介してくれた。聖母整肢園は、その井上明生医師を療育部長に迎えて1970(昭和45)年に開設され、日本で初めて、脳性麻痺の早期(ゼロ歳児)治療を開始していた。

「聖母整肢園並みの療育機器を整える」井上医師に会い、その理念と知識、技術、経験に基づいた療育環境を目の当たりにした正子はそう決めた。

子どもたちには、その時々のいちばん良いものを、が正子のモットーだ。都島の児童福祉拠点として、これから発展していく町にふさわしい近代的な施設にすると決めている。新設する療育園もその象徴と言えるほどの質にするのは、当然のことだった。

都島児童センターが完成し、身障児療育園がオープンした1972(昭和47)年、大阪市は他の都市に先駆けて、障がい児保育の助成制度をスタートさせた。予算総額は400万円。総定員二十五名とし、民間保育所四施設で実施。障害福祉課を窓口に、障がい児五名に保母一名の加配方式で補助を行った。

明治時代の産業革命で大阪市は急速に都市化が進んだ。水都の水路を活用し、紡績産業、製鉄産業の発展で、大正時代には東洋のマンチェスターと称され、1915(大正4)年には、人口と面積で日本第1位、世界第6位の大都市となった。その華々しい大発展の一方でスラムが生まれた。この大発展の光と影の中で大阪市は福祉の必要に直面し、他に類のない都市福祉を推し進めていった。正子の恩師、志賀志那人が創設に尽力し、初代館長を務めた日本初の公立セツルメント「大阪市立大阪北市民館」は、まさに都市福祉のパイオニアとしての取り組みだった。

必要に迫られて都市福祉を発展させてきた大阪市。障がい児保育への福祉政策も、国策を待たずに独自に推し進めた。

四施設、総定員二十五名でスタートした障がい児保育に、障がい児の親たちから予想以上の反響があった。翌1973(昭和48)年には予算を倍以上の900万に増額、五施設、総定員五十名に拡大。1974(昭和49)年には、子ども四人に保母一名と質の向上も図った。この1974(昭和49)年12月、厚生省から「障害児保育事業実施について」の通達が出た。「概ね四歳以上の集団保育の軽度障害児」に対するものだった。これを受けて大阪市は、児童福祉審議会において次のような答申を行った。

「障害児は、障害の種類や症状が多種多様であるだけに、家庭でその子の心身の発達を適切に援助することが難しい。障害児の場合は、『保育に欠ける』という措置要件の範疇として考慮されるべきである」

千差万別の障がいについて、それぞれの発達を見極めたうえでの適切な療育を、家庭内で行うことは実際には難しい。「保育に欠ける」措置要件として、子育て支援を行うべきだ。現実を踏まえた実際に即した見解。徐々にではあったが、障がい児保育についての政策を、国策に先立って実施してきた大阪市からの提言だった。

障がい児療育の第一人者に倣い、最先端の療育機器を整えてスタートした都島児童センターの身障児療育園。独自に、先端的な身障児療育を進めてきた都島児童センターの身障児療育園の実績に、大阪市から施設経営委託の話が持ち込まれた。前進的、積極的方針で障がい児保育を進めてきた大阪市からの申し入れを、正子は都島の児童福祉をより充実させる機会とした。

1976(昭和51)年、社会福祉法人都島友の会は大阪市の経営委託を受けて、知的障がい児を受け入れる「都島こども園」と、知的発達遅延児も受け入れる「都島東保育園」の二施設の運営を始めた。都島児童センターの身障児療育園と合わせて、三施設で療育を行うようになった。

のびのびと育てる自由保育。知、体、徳を育てる教育。集団生活の中で社会性を養いながら、それぞれの子どもの自主性を重んじる幼児教育。青空保育園のころから一貫して続けてきた正子の理念と方針。それは障がい児療育においても同じだった。

保育園や児童厚生施設で行っているように、子どもたち一人ひとりが、それぞれに応じて発育し、社会の一員として成長していけるように。子ども一人ひとり、個別の主体性を見つめ、それぞれの自主性を育てていく。そして保育園の健常児と障がい児が、交流の中でそれぞれの自主性において、いたわり助け合うように。幼い魂に温かな灯火をともして育てていく。それが障がい児療育の先駆けとして、正子が実践した、障がい児療育の在り方だった。

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