第33話 前進への変化
ゼロ歳児保育の草分けとして、日本全国からの見学者が絶えなかった都島乳児保育センター。その人気の高さは想像に難くなかった。実際、入園を希望する地域の人たちからは、「都島乳児保育センターに入るのは、大学に入るより難しい」と笑い話に語られるほどだった。
希望者すべてを受け入れるのが正子の基本姿勢だった。定員九十名に漏れる子どもたちの数が増えるに従い、乳児保育センターを大きくするか、もう一つ建てるかを考えはじめた。そして、都島乳児保育センター開設から七年後の1973(昭和48)年、隣接する都島病院を改築した都島第二乳児センターをオープンした。
都島病院は、都島第二乳児センターへと改築する間際まで、地域医療を支える病院として活動していた。活動中の病院を二つ目の乳児保育センターにつくり替えたのだった。それは、今、地域が社会福祉法人都島友の会に求めているのは何か、いちばんに応えるべき地域の要望は何か。移り変わる地域の姿を見つめ、出した答えだった。
この都島病院の前身は、1951(昭和26)年に、預かった子どもの生命を守るために開設した都島診療所で、地域医療や低所得者医療も担ってきた。近辺に初めてできた医療施設、都島診療所。開設早々、診療を求める人が次々訪れた。正子は地域に医療施設のあることが生活にもたらす安全を実感した。
開設以来、患者の身になって、患者の都合のよいときに治療が受けられることを診療方針にする都島診療所の受診者は、急速に増えていった。少し増築したほうがよいのではと、院長医師に相談したところ、「増築するのであれば、土地を確保し大規模に行った方が将来のためになる」と返ってきた。その助言を受けて正子は、1951(昭和26)年、診療所裏の空き地三百坪を購入した。地域医療のためにという正子の思いに、所有者が快く手放してくれたのだった。地域の人の理解と協力を得て、保育を軸に進めてきた地域社会づくりが、大きく一歩前進した。
1952(昭和27)年5月20 日、都島友の会は財団法人から社会福祉法人に組織変更の認可を受けた。この年、社会福祉法人が旧民法三十四条の公益法人の特別法人として制度化された。戦後、社会福祉事業が公的責任によって実施されることになり、民間の社会福祉事業の自主性の尊重と経営基盤の安定などの要請からの制度化だった。少女時代、父のヒューマニズムに影響を受け、将来は社会をつくる仕事をしたい、苦しみを抱えて片隅にとり残される人のいない社会づくりをしたいと夢見た正子。そしてその道をまっしぐらに走り続けてきた正子。社会福祉法人への組織変更は素早かった。法規制や監督を受けながら、主として国からの措置事業を担い、公共的な機能を担う法人として認められた社会福祉法人となった。
社会福祉法人になると、1954(昭和29)年、大規模な増築を行い、都島診療所は都島病院へと昇格し地域医療の強化を図った。運営母体が社会福祉法人となったことで地域医療への役割を強化。診療対象を地域の生活保護者、健康保健適用者、労災適用者、自費患者と広げ、地域医療の担い手としての性格を明確にした。
1957(昭和32)年に労働争議で閉鎖が余儀なしとなったのは、この都島病院だった。その一年後の1958(昭和33)年、占拠されていた病院の建物を法的に取り戻した。その闘いには、何があっても、子どもたちのため、地域福祉のための病院は手放さない。この病院を形作ってきた福祉の心にそぐわなければ、何者であっても立ち入らせない。正子の社会福祉事業家としての強い決意があった。1960(昭和35)年に一部診療を再開。1963(昭和38)年、都島病院として認可復活を得て、全面的に診療を再開した。
一部診療を開始した1960年に、病院に隣接する看護師寮を転用し、ゼロ歳児保育を行う乳児保育所を開設。二歳児を対象とした幼児保育施設の普及が思うように捗らない社会状況のなか、第二子出産を間近にした母親たちの切羽詰まった声を聞いてのことだった。
さらに1966(昭和41)年、都島病院の隣地に、近代設備を備えた都島乳児保育センターを開設。厚生省実験的開拓事業として認可を受け、ゼロ歳児保育のモデル事業となった。ゼロ歳児保育の草分けとしての大きな一歩には、施設に隣接し、子どもたちの安全を守る都島病院の存在も大きかった。
ゼロ歳児保育の道を開いていた1960年代初頭、正子は都島児童館内の都島保育所の事業も前進させていた。保育所を増築して定員二百三十名に拡大。1960(昭和35)年に大流行したポリオで増えた小児麻痺の子どもを受け入れて、障がい児療育にも取り組んでいた。
高度経済成長、所得倍増計画で地域の人の生活様式が変わっていた。乳児保育、障がい児療育とサービスの拡充を推し進めると同時に、正子は施設の近代化を図った。その中には、都島病院も含まれていた。1969(昭和44)年、都島病院は医師たちの意見を取り入れた近代設備を備え、ベッド数100床と規模も大きく生まれ変わり、地域医療の担い手として、産業指定医の役割も引き受けた。
しかし、乳児保育を必要とする家庭の増大に応じて、この都島病院を改築し、第二都島乳児保育センターに変えると決めたのは、都島病院近代化から三年と経たないうちのことだった。町の発展に応じて、地域にはすでに医療施設が増えていた。
「もう、私たち素人が医療事業をしなくてもいい。都島病院を閉院しても地域の人たちは困らない。私たちは、私たちの役割を果たす。仕事を続けたいと思う女性たちが、子どもか仕事か迷わずにすむ社会づくりのために、保育事業を発展させるんだよ」
躊躇なき決断だった。子どもたち、町の人たちの健康と生命を守ってきた都島病院は、その役割を終えた。
1973(昭和48)年、都島乳児保育センターの隣に、定員六十名の都島第二乳児保育センターが完成した。二つの乳児保育センターを合わせて、ゼロ歳児保育の受け入れは定員百五十名となった。
町の姿、人の暮らしの変化に応じて、柔軟に変化していく。直面する現実に対応しながら、将来の社会の姿を見通し、変わっていく。正子は「次はどうする?」と問い続け、動き続けた。
この前年、1972(昭和47)年、正子は都島児童館を一新。地域社会づくりへの歩みを大きく進めた。地域の姿、生活に応じて、常に一歩先へ、一歩先へと前進してきた都島児童館の、さらなる前進だった。