第32話 厚生省実験的開拓事業として
1966(昭和41)年6月1日、都島乳児保育センター開設。近代設備を備えた乳児保育所建設という正子の構想が実現した。1960(昭和35)年に開いた乳児保育所の隣に、四階建てのビルディングを建設。一階を「都島乳児保育センター」、二階から四階を「あやなす荘」という賃貸住宅にした建物だった。
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戦後の経済復興に伴い、一階を事務所や店舗に貸して、二階以上を集合住宅にした下駄履き住宅という建造物が登場した。この下駄履き住宅にひらめきを得て建てたのが、都島乳児保育センターとあやなす荘だった。
高度経済成長期に入って、女性の社会進出はどんどん加速していた。子育てしながら仕事を続けていく女性も増えている。そういった女性たちが望むのは何か。自分自身、四歳、二歳、ゼロ歳の子どもを育てながら、託児所と幼稚園を併せた福祉的幼稚園を創設した正子。住居と保育所が一体になっていれば、どれほど便利だろうかと考えた。
雨の日、風の日、カンカン照りの日。大きな荷物を手に、小さな子どもを連れて歩かなくていい。送り迎えの時間が最短になる。ほんの少しでも子どもに向ける時間が増えれば、子どものためになる。正子は住宅金融公庫の中高層住宅への貸付金を利用して、乳児保育所の上に賃貸住宅を建てようと考えた。まだ制度にない「乳児保育施設」をつくるには、資金のほとんどを自己調達しなければならなかった。賃貸住宅を併設すれば構想中の「都島乳児保育センター」の建設費の返済と運営費用の調達にもなるとも算段した。
しかし前例がないということで、融資の申し込みは受付けられなかった。だが、ここで黙って引き下がる比嘉正子ではなかった。「政府の住宅政策は金儲けばかりを考えないで、社会事業にも貸すべきだ」と、中央の省庁まで直談判に乗り込み、それから粘りに粘って説得を続け、二年後に許可を得たのだった。
きっと地域社会の役に立つと粘り強く実現させた、住居と一体型の乳児保育園。この都島乳児保育センターが完成したころ、団地の建設が進んでいた。そして団地に入居する子育て世代から、団地内に子どもを預かってくれる施設があれば助かるという声があがっていた。
「前例がない」と融資を受けられなかった構想だったが、母親たちの声に耳を傾け、地域の姿を見つめ続けた正子。常に十年先を見通し、次の一手を考え続ける正子ならではの、時代に先駆けた施設建設だった。実際、2DKの間取りで相場よりも低家賃のあやなす荘への入居希望者は多く、シングルマザーへの人気は高かった。
一階の都島乳児保育センターはかねてより正子が構想していたとおり、保母たちの負担を軽くすべく近代設備も導入しての工夫が凝らされていた。
各保育室に一人に一台のベッドを設置。保母たちの身長から高さを割り出した別注で、オムツ交換の際の動作を楽にした(二歳児のクラスは子どもたちの活動スペース優先でまもなく撤去)。さらに貸しオムツを導入、親たちの負担も軽くした。
山積みになる親からの預かり荷物を収納できるロッカーを各保育室に設置。どこからでも、すべての保育室の子どもたちの様子が見られるように、そのロッカー上部は総ガラス張りに。また扉はよく開く両開きタイプで作業の手間を省き、子どもたちへの時間をすこしでも多くした。
そしてもう一つ、正子は登園が楽しくなるようにと、玄関脇の壁面に間口二間程のショーウインドウをつくった。開設時そこには、関西主婦連合会を通じて正子と交流のあった大阪ガスがお祝いに、童話『白雪姫と七人のこびと』のお家を思わせるようなディスプレーを寄贈してくれて、子どもたちだけでなく道ゆく人たちも楽しませた。
それまでの乳児保育園が、新しく都島乳児保育センターとしてスタートするということで、定員の六十名はあっという間に埋まった。希望者全員を理想に、可能な限り受け入れるという正子の方針で、開設から二カ月後の8月には九十名に増員。保母たちは急な増員にも、1960(昭和35)年からの経験で難なく対応した。
生後四カ月からのゼロ歳児、一歳児、二歳児、九十名を預かるにあたって、都島乳児保育センターでは、保母と保護者との連携を強化した。
保母たちは大阪大学病院、大阪市立大学の医師に健診指導を受け、毎朝、登園児全員の健診を行った。そしてその後、保護者がオムツを替えて、遊び着のスモックに着替えさせて預けた。遊び着は施設内の洗濯機と乾燥機で、保母たちが毎日、洗って乾かした。
その時々のいちばん良いものを用意する。それが正子の方針だった。戦前戦中戦後と物資不足のときも、資金繰りに走り、できるかぎり精一杯の良いものを揃えてきた。
正子が、託児所の機能と幼稚園の幼児教育を併せもつ福祉的幼稚園を始めた1931(昭和6)年。当時、幼稚園は富裕層の特権的存在で、庶民の子らを預かる託児所で幼児教育を行うという考えはなかった。正子はそういうなかで、幼児教育を行う保育園をつくったのだった。
家庭がどうこうあろうと子どもたちは平等だ。ここに来れば、どの子どもにも平等な機会が与えられる。それが比嘉正子のつくった北都学園、都島幼稚園、そして都島児童館だった。
正子が考える平等な機会には保育のカリキュラムだけでなく、過ごす環境も含まれていた。良いものに触れる機会の平等さも含んでいるのだ。子どもたちが過ごす空間、触れるものは良いものであること。そこにいることが楽しいと思える場所にする。そのために正子は労を惜しまなかった。
都島乳児保育センターも当然、例外ではなかった。別注のベビーベッド、ロッカー上部を総ガラス張りにして死角をつくらない設計、遊び着用の洗濯機と乾燥機。貸しオムツも、子どもたちの布団も、肌触りや使い心地を確かめて選んだ。質の高い保育のための環境づくりに余念がなかった。
高度経済成長、所得倍増計画で子どもたちの家庭の生活様式は変化していた。子どもを預ける施設も、その時代に応じていなければならなかった。近代的設備の導入と合わせて全館冷暖房完備にした。「ああ、涼しい。ここに預けたら汗疹が治る。家に居るよりも、ここで過ごしてる方が幸せやねえ」送り迎えにきた親たちからは、そんな声も聞かれた。
快適な環境での保育には、1960(昭和35)年に開設した乳児保育所で積み重ねた知識と技術があった。
子どもの命を大切に、目を離すなの信条での保育は、毎朝の健診、検温、月齢に合わせた前期・中期・後期の離乳食や授乳、オムツ交換での排泄物の観察。歌を歌って昼寝をして、沐浴、おやつと、遊びや生活にも保母たちは熱心に取り組んだ。さらに屋上に手押し車や三輪車を置いて歩行訓練を行い、二歳児になると子どもたちは、所狭ましと元気に走り回るようになっていた。
この都島友の会の乳児保育センターは、ゼロ歳児保育施設として許可を得るにあたって、厚生省の実験的開拓事業とされた。二歳児を対象とした幼児保育施設開設の推進に力を入れる行政にとって、五年以上の実績に裏付けられたゼロ歳児保育を行う乳幼児保育所は貴重な存在だったのだ。
実験的開拓事業に指定された都島乳児保育センター。他に類を見ない乳幼児専門の設備が整えられた施設には、開設当初から全国からの見学者が絶え間なく訪れた。 ゼロ歳児保育の草分けとなった都島乳児保育センターは、業界の先駆けとしてここからさらに発展していく。